母子登校に悩むあなたへ|閉じた世界に見える子どもとの向き合い方
ブログをお読みいただきありがとうございます!
娘が私が食べているものをすべて奪い取ろうとしてくるので、台所でしゃがんで隠れて食べるようになりました。
すると娘が保育園に行っている時間にも、癖で台所で食べては「はっ」となっている山下です。
今回も哲学をふまえ、お子さんの登校について記事を書いてみたいと思います。
哲学と対話から考える「関係」の再生
「この子の世界には、入り込めない気がするんです」
「この子の気持ちや考えが全く分かりません」
「何を考えているかわからない…理解できない…」
母子登校や不登校のご相談で、こんな声をいただくことがあります。
親がどれだけ話しかけても、子どもは「うん」としか言わない。
目は合っているのに、何か壁がある。 その沈黙の向こう側に、もどかしさと不安を感じませんか。
この「閉じた世界」のように感じられる子どもの様子を、哲学者ライプニッツの「モナド」をヒントに見つめ直してみると、新たな視点に気づくことができるかもしれません。
モナドとは? 「窓なき孤独な存在」
哲学者ゴットフリート・ライプニッツが唱えた「モナド(monad)」というものがあります。
例えば、あなたが子どもとの関係について、
「どうして気持ちが通じないんだろう?」
「わたしの言葉が、この子に届いていない気がする…」
「子どもの心とわたしの心がつながる窓があればいいのに」
という悩みを持ったとします。でもライプニッツは言います。「そもそも人と人のあいだに窓なんて、ないんだよ」と。
人と人との間には、窓がない。では、そんな私たちがどうして「理解し合っているように感じる」のでしょうか?
それは、「窓」があるからではなく、もっと別の仕組(共通の言語や、経験の重なり、想像力など)によって、「わかり合えた気がする」という出来事が成立しているにすぎないのかもしれません。
この「窓がない」ということには、2つの意味があります。
1,わたしたちは主観の中でしか世界を見られない
これは、「人は自分の内面を通してしか世界を経験できない」ということ。
つまり、すべての理解や認識は私の内側で起きているという考え方です。
この視点に立つと、他者のことも「自分の主観を通して」しか見ることができません。
だから、「子どもがどう感じているか」も、結局は自分のフィルターを通した想像にすぎないということになります。
2,人はそれぞれが「絶対的に一つの存在」である
こちらはもっと深い問いです。
「私は私である」「子どもは子どもである」
このあたりまえのことの中に、互いが決して完全には重ならない独自として存在しているという考えが含まれています。
つまり、どれだけわかり合いたくても、「完全に同じになる」ことはない、と。
<引用:Monad Theory of Leibniz/Kenji Kami>
子どもが「心を閉ざしているように見える」とき
- 目を合わせるけれど、心は遠くにあるように感じる
- 何を考えているか、こちらには伝わってこない
- 話しかけても、言葉にならない沈黙が続く
そんな子どもたちは、一見すると「他者との関係を持たない存在」に見えることがあります。
でも、本当にそうでしょうか?
教育機会確保法がもたらした「静かな排除」
近年、「学校に行かないことも選択肢だ」とする教育機会確保法の価値観が広がり、
- 無理に行かせなくていい
- 子どもの意思を尊重する
- 見守りや待つことが大切
というメッセージが強調されるようになりました。
一見、子どもにやさしい支援のように見えます。 けれど実際の現場では、こうした「やさしさ」が、
- 家庭と学校の対話の減少
- 支援者が責任や関与を避ける口実
- 子どもが「誰からも深く関わられない」状況
を招いている場面も少なくありません。
まるで、「あなたの世界に私は入らないよ」と、 暗黙のうちに伝えてしまっているかのようです。
昔は、ぶつかることで見えていたこともあった
もちろん、かつての「学校復帰ありき」支援が良かったわけではありません。 けれど当時は、
- 親が「どうしても行ってほしい」と真正面からぶつかった
- 衝突の中で、互いの気持ちがあらわになった
- そこから、涙や対話が生まれた
というプロセスも存在しました。
関係を持とうとしていたからこそ、 未熟でも「向き合う」ことができていたとも言えるのかもしれません。
傾聴だけでは届かない「語られない物語」・見守るだけでは変わらない親子の関係
今はどうでしょうか。 スクールカウンセラーが増えても、不登校は減っていません。
多くの支援は、「子どもの話を聴く」ことにとどまり、 親子関係の再構築には踏み込めていないように感じます。
私が大切にしているのは、
- 沈黙の中にある親子の語られない物語を見つめること
- 家庭内の対話の質を変えること
- 誤解やすれ違いに丁寧に耳をすますこと
です。
たとえ子どもが「こころを閉じたように見える」と思っても、関係の中で変わっていくことができると考えています。
もし今、あなたのお子さんが「心を閉ざしている」と感じるなら、「この子が閉じているからダメだ」とは捉えず、どうやって関係性を築き、関わっていくかを意識してみてもいいのかもしれません。
復学を目指さない支援で、結果として登校が実現する理由
MIKURU・MIRUでは「学校へ戻ること」を直接の目標にはしていません。
ですが、親子が対話を交わせるようになり、関係が変わったとき、結果として子どもが「行ってみようかな」と思うようになります。
それは「連れ出されたから」ではなく、 「理解された」と感じたからなのかもしれません。
わたしの支援を受けられているケースでは、復学をお約束していないのに、7~8割のケースは結果的に復学するという現象がおきています。
最近は小中学生のケースのみならず、高校生のお子さんを持つご家庭への支援が増えてきました。
特に思春期に突入し、「会話ができなくなった」「何を考えているか本当にわからない」「どうしていいかわからない」という親御さんが私の支援をしり、「やってみたい」とご相談をくださっています。
子どもは、関係の中で安心する力を取り戻す
子どもは一人では変わるということがむずかしく、対話や関係性の中で、初めて子どもは安心して動き出すということがあります。
親子間のやりとりや関係が変わることで、結果として、お子さんが復学をする。
やりとりの過程で、復学は「副産物」としてついてくることがあります。
↓「会話を変えるとは???」とおもわれたかたは、よければこちらを参考にしてみてください。
やりとりを変えるには、「観察力」を高めることが大事で、支援を受けていただいているみなさんに意識していただいていることをこちらで特別に一部解説しています。
おわりに 。 窓は、きっとある
「この子には窓がないのではないか(こころを閉ざしきって、もう開かれることはないんではないか)」
そんなふうに思えてしまう日もあるかもしれません。
でも、窓は、きっとどこかにあります。
それは、ただ待つことでもなく、 無理にこじあけることでもなく、目の前の子どもと、 何度でも、ゆっくりと、向き合っていくことです。
「関係を取り戻すこと」から、すべては始まります。
「対話が難しい」「本音でぶつかろうにも、子どもを傷つけてしまいそう」「子どもの本音が出てきたらどう受け止めていいかわからない」と悩まれる方はぜひ、まずは私がおすすめする方法で親子会話を振り返ってみてください。
もし取り組んでみたものの、「どうしていいかわからない」と悩まれたら、ぜひ一度ご相談ください。
私の支援にはメソッドのような型がないので最初は苦労があるかもしれませんが、「山下に出会えてよかった」というお声を多くいただいています。
それでは、今回はこれで終わりたいと思います。
さいごまでお読みいただきありがとうございました。また次回のブログもお読みいただけると嬉しいです!
まいどん先生(公認心理師)
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