家族の心を「読み解く」ということ。不登校や母子登校の読み解きかた

 

家族の心を「読み解く」ということ。不登校や母子登校の読み解きかた

私は、不登校復学支援や家庭教育支援に携わる支援業を10年支援機関で勤め、行い、2022年に独立し、今は家庭への支援を「家庭共育支援」とよび、カウンセリングをおこなっています。

そういった背景もあり、私は、不登校などの支援において、家庭内の役割や境界線を整理し、対応を変えていくのは大事なことだと思っています。
親が親としての位置を取り戻し、子どもは子どもらしく。

野球の守備位置が決まるように、家庭の中に「次に何が起きるか」という予測可能性が戻ると、子どもは再び動き出すことがあります。

けれど、支援を続けていると、それだけでは届かないケースにぶつかることがあります。
朝の混乱は減った。親も感情的に怒らなくなった。学校にも行き始めた。
それなのに、子どもがふとした瞬間に見せる虚無感や、親自身の内側に澱のように溜まる「言葉にならないしんどさ」が消えない。

家庭は「機能する集団」になったけれど、「残されたしんどさ」がある。…というご家庭のケースもお見掛けします。

 

なんとなく残る、このしんどさの正体はなんでしょうか。

それは、行動やルールという「表面の構造」は整ったけれど、その奥にある「意味」が置き去りにされているからだと私は考えています。

この「意味」にどう触れ、どうやって関係を回復させていくのか。
そのヒントとなるのが、「解釈学」という考え方です。
なんだか難しい哲学の言葉に聞こえるかもしれませんが、もともとは古い聖書や手紙を「どうすれば本当に正しく読み解けるか」と大真面目に考えた人たちの技術論です。
そして、この考えは、目の前の子どもの心や、家族のすれ違いを「どう読み解くか」という、私たちの毎日の子育てや支援に、そのまま当てはまるものです。

解釈学が教えてくれる、家族を読み解くための視点を今回はお話したいと思います。

 

自分がどんな「色眼鏡」をかけているかに気づく(先理解)

私たちは誰もが、「自分は物事をありのままに見ている」と信じています。
けれど解釈学では、「人間は絶対に、まっさらな状態では人を見ることができない」と考えます。

私たちはみんな、自分が生きてきた歴史や、自分が生き延びるために身につけた価値観という「色眼鏡」をかけて、目の前の世界を見ています。

私自身の話を少しさせてください。
私は小さい頃から、自分の気持ちに触れてもらえるような関わりを受けてきませんでした。重力が強い土星か木星のような、すべての明るい色に灰色が混ざるような実家の空気のなかで、「自分の思い通りにいかないこと」「期待しないこと」に慣れていくのが私の生き延びる術でした。
感情を押し殺し、効率よく日々をこなす。そうやって自分を守ってきた「私の色眼鏡」を通して2歳の娘を見たとき、何が起きたか。

自我が芽生え、効率とは無縁のところで思い通りに動かない娘が、私の「日々の効率」を脅かす煩わしい存在に見えてしまったのです。
娘の気持ちよりも、「早く自分でやってよ」という面倒くささが勝ってしまう。それは私が冷たい人間だからではなく、私が生き延びるために血肉化してきた「感情より効率を優先する」という色眼鏡と、娘の「今を生きたい」という生のエネルギーが激しく衝突した結果でした。

不登校の子がいらっしゃるご家庭でも、同じことが起きやすいです。
親は、「学校に行くのが当たり前」「多少のことは我慢して乗り越えるべき」という、親自身が社会を生き延びてきた色眼鏡を通して子どもを見ます。だから、動けなくなった子どもが「ただの怠け」や「理解不能な存在」に見えて苛立ってしまう。
コミュニケーションの技術や正論が通用しないのは、この「色眼鏡」の存在に親自身が気づいていないからです。

子どもをどう動かすかの前に、「自分は今、過去のどんな体験から作られた色眼鏡で、この子を見ているのだろう」と立ち止まること。これが、「意味」に触れる第一歩です。

 

「行動の点」と「人生の線」を行き来する(解釈学的循環)

解釈学の基本に、「部分を理解するには全体を知らなければならず、全体を理解するには部分を読み解かなければならない」というルールがあります。

子どもが

「もう学校なんてどうでもいい」

…と暴言を吐いたとします。

これは、ひとつの「部分(点)」です。親はこの「点」だけを切り取って、

「そんなこと言うもんじゃない」

(心の声:どうやって暴言をやめさせようか)

…と修正しようとします。

しかし、その言葉の意味は、その子が生まれてから今日まで、家庭や学校で何を背負い、何を諦め、どんな風に親の顔色をうかがってきたかという「全体(線)」を見なければ、絶対にわかりません。

 

例えば、「そういえばこの子は、ずっと私の不安を先回りして、いい子を演じてくれていたな」という「全体(線)」に思いを馳せたとき、

「どうでもいい」という暴言(点)は、怠けや反抗ではなく、「これ以上、期待に応えられない自分を守るための言葉」に姿を変えます。

 

目の前の不可解な行動(点)と、その子の人生の歴史(線)を行き来しながら、「この言葉の本当の意味は何だろう」と丁寧に読み直していく。

そうすることで、表面的な問題行動の奥にある、その子の生々しい傷つきが見えてきます。

 「知っている人」を降りて、新しく出会い直す(地平の融合)

娘が言葉を話し始めた頃、私は気づきました。
「私は娘よりものを知っている人で、娘は私がコントロールできる存在だ」と思い込んでいたことに。

親はつい、自分が正しい答えを知っていて、子どもをそこへ導かなければならないと考えます。
しかし、子どもには子どもの見ている景色(地平)があります。教室の空気が凍りつくような恐怖や、親をがっかりさせる罪悪感。それは親の景色とはまったく違うものです。

解釈学が目指す対話のゴールは、親のおもう正しい景色に子どもを引きずり込むことではありません。

親が「私は正しい答えを知っている」という強者のポジションから降りること。

 

「お母さんも、不安で自分のやり方を押し付けてしまっていたかもしれない。あなたが本当は何を感じていたのか、教えてほしい」

…と、自分の弱さや不完全さをテーブルに置くこと。

そのとき初めて、子どもは「修正される対象」から、「一緒に対話をつくる対等な人間」になります。

「ずっと嫌われるのが怖かった」

「本当はすごくしんどかった」

長年飲み込んできたその言葉を、親が評価せずに受け止める。

親の価値観でも、子どもの我がままでもない、二人で「これからどう生きていこうか」という新しい意味を創り出す。

これが起きて初めて、その子は自分の感じ方を取り戻し、家族は「回復する関係」になるのです。

家庭の役割を整えることは、もちろん必要です。
でも、整った家庭の中でなお残る、その子の苦しさの意味、親の背負ってきたもの、親子のあいだで言葉にならないまま流れてきたもの。
そこまで扱うこと。
それが、私が今やっている支援です。

 

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「点と線の行き来」がもたらす意味の反転

実際の支援の現場でよく出会う、ある朝の風景を例に挙げてみます。

朝、制服に着替え、朝食も食べ、カバンも準備した。あとは靴を履いてドアを開けるだけ。

それなのに、玄関の土間で靴を履いたまま、子どもがじっと固まって動かなくなることがあります。
あるいは、急に「やっぱり無理!」と吐き捨てて自室に引き返し、そのまま布団を被ってゲームを始めてしまう。

これは、親の目から見れば理解不能な「部分(点)」です。

 

「あともう一歩じゃないか」
「昨日あんなに『明日は行く』って約束したのに」
「ゲームがしたいから仮病を使っているんじゃないか」

 

…など、親が自身の「色眼鏡(効率や規範)」を通せば、その行動は怠けや甘え、あるいは親への反抗に映ります。そして、

 

「早く行きなさい!!」

「約束が違うでしょ!!

…と、その「点」だけを修正しようと正論をぶつけてしまう。

結果、子どもはますます固く貝になり、家庭の空気は重く沈みます。

 

しかし、カウンセリングの場で親御さんと共に、少しずつこれまでの「家族の歴史」を紐解いていくと、まったく違う景色が見えてきます。
目の前の「点」から視点を広げ、その子の人生の「線(全体)」をたどるのです。

「そういえばこの子は、小さい頃から私がため息をつくと、すかさず機嫌をとるように話しかけてくる子でした」
「学校で友達に嫌なことを言われても、『自分が我慢すれば丸く収まるから』と笑って誤魔化すようなところがありました」
「私と夫の空気が悪かった時期、この子はいつも居間でひょうきんな真似をして、場を和ませようとしてくれていました」

こうした「人生の線(全体)」を振り返った後で、もう一度、あの「玄関で固まっていた朝」という「点」に戻ります。

すると、あの不可解な行動の意味が反転します。
靴を履いたまま固まっていたのは、怠けでも甘えでもありませんでした。
それは、「今日もまた、学校で平気なふりをして周りに合わせなければならない」「でももう、そのためのエネルギーが一滴も残っていない」という、過剰適応の限界を知らせる身体の悲鳴だったのです。
部屋に戻ってゲームに没頭したのは、親の期待を裏切ってしまったという強烈な罪悪感から逃れるための、必死の防衛行動だったのです。

「行かない」のではなく、「行くために必要な、偽りの自分を演じるための鎧が、もう重すぎて着られない」。
その子の歴史(全体)を知ることで初めて、あの朝の行動(部分)の本当の意味にたどり着くことができます。

これが、解釈学が教える「点と線の行き来(解釈学的循環)」です。
目の前の問題行動を切り取って修正するのではなく、その行動が「この子の人生の歴史の中で、どのような意味を持って現れたのか」を問い直すこと。
親御さんがこの視点を持てたとき、子どもにかける言葉は「どうして行かないの」から、「今まで、よく一人で周りの空気を背負って頑張ってきたね」へと変わります。
その瞬間、膠着していた関係に、変化の風が吹き始めるのです。

 

「点と線の行き来」が必要になるのは、子どもが動けなくなったときだけではありません。

親にとって最も受け入れがたく、激しい感情をぶつけられる場面でも、この見立てが不可欠になります。

【事例1:激しい暴言と他責の裏にあるもの】

ある時期から、子どもが親に対して激しい暴言を吐くようになるケースがあります。
「お母さんの育て方が悪かったからだ!」「お前のせいで人生めちゃくちゃだ!」と理不尽に親を責め立て、壁を蹴り、自分の思い通りに親が動かないとパニックを起こす。

この激しい行動を「点(部分)」として切り取ると、親の目には「わがままで暴力的な子ども」「親をコントロールしようとする暴君」に映ります。親の「規範」という色眼鏡を通せば、「ここで毅然とした態度をとらなければ、この子はダメになる」「暴力を許してはいけない」と、行動を力で制圧するか、あるいは恐怖から子どもの言いなりになるかの二択に陥ってしまいます。

 

しかし、ここで視点を広げ、この子の「人生の線(全体)」を振り返ってみます。
「この子は今まで、親に怒りをぶつけたことがあっただろうか」
「私たちが忙しくしているとき、いつも一人でブロック遊びをして、手のかからない『いい子』でいてくれなかったか」
「『お母さん、あのね』と話しかけてきたとき、私は『あとにして』と効率を優先してこなかったか」

過去の線と現在の点をつなぎ合わせたとき、その暴言の意味は反転します。
それは、わがままや親への攻撃ではありません。長年、親の都合に合わせて「自分のネガティブな感情(怒りや悲しみ)」を押し殺してきた子どもが、ついに限界を迎え、「こんなに醜くて、ドロドロしたどうしようもない自分を出しても、お母さんは私を見捨てないか」という、確認作業をしている姿でした。

「親を攻撃している」のではなく、「自分が抱えきれないほどの恐怖と怒りを、一番安全なはずの親という器に投げ込み、受け止めてもらおうとしている」。

歴史という線から意味を読み解くことで、親は「毅然と戦う」でも「怯えて従う」でもなく、「あなたのその苦しさと怒りを、今はただ聞くよ」という、全く別の立ち位置(地平)に降り立つことができます。

【事例2:突然の「過剰な明るさ」の裏にあるもの】

もう一つ、非常に見落とされがちなのが「急に明るく、前向きになる」という点です。
ずっと部屋に引きこもっていた子どもが、ある日突然リビングに出てきて、お手伝いをし始める。

「お母さん、今までごめんね。明日から学校行くよ!」「フリースクール探してみる!」と、見違えるように前向きな言葉を口にする。

親からすれば、これほど嬉しい「点」はありません。「やっと回復した」「私たちの見守りが実を結んだ」と喜び、その言葉を全面的に信じて背中を押したくなります。

しかし、ここでも「線」の確認が必要です。
「この子は今、本当にエネルギーが溜まっている状態だろうか」
「ここ最近、親である私たち自身が、先の見えない不安から暗い顔をして、家庭の空気が重く沈んでいなかったか」

この線から読み解くと、その過剰な明るさは「回復」ではなく、「親への防衛」である可能性が浮上します。
自分が学校に行けないことで、家庭が壊れてしまうかもしれない。お母さんが倒れてしまうかもしれない。その罪悪感と恐怖に耐えきれなくなった子どもが、

「自分の不安やしんどさを再び切り離し、親を安心させるための『元気な子ども』を無理やり演じ直している」という状態です。

 

ここで親が「点」だけを見て「えらいね、明日から頑張ろうね」と乗っかってしまうと、

子どもは「やっぱり自分はしんどいままでは許されないんだ」と絶望し、数日後にさらに深いフリーズ状態に陥ることがあります。

 

【事例3:娘の制服姿を喜べない母親の「黒い感情」】

不登校から少しずつ動き出したお嬢さんとお母さんが、中学校の真新しい制服の採寸に出かけたときのことです。

お嬢さんが制服に袖を通し、鏡の前ではにかみながら嬉しそうに笑っている。親として、これほど安堵し、喜ばしい瞬間はないはずです。

しかしその瞬間、お母さんの胸の内に、黒い泥のような感情がぬちゃりと湧き上がりました。

「どうしてこの子だけ、こんなに楽しそうなの?」
「どうせまた、すぐに行けなくなるくせに」

そして帰り道、母親は些細な娘の言葉尻を捉えて激しく怒鳴り散らし、お嬢さんは再び自室に引きこもってしまいました。

この「点(事象)」だけを切り取れば、「子どもの回復を素直に喜べない親」と「それに振り回される娘」という評価になります。

お母さん自身も「自分は最低の人間だ」と激しく自分を責めました。

しかし、ここで視点を広げ、このお母さんの「人生の線(全体)」をたどります。

母親自身が学生時代、孤立やいじめを経験し、誰にも守られず、友人と笑い合うような青春を持っていなかったとしたらどうでしょうか。

「期待すれば傷つくから」と、自らの寂しさや欲求を強固に封印し、感情を麻痺させることで今日まで生き延びてきたのだとしたら。

鏡の前で笑う娘のキラキラした姿は、母親にとって喜びではなく、長年蓋をしてきた「私には手に入らなかった」「私はずっと一人だった」という猛烈な孤独感と羨望の古傷(スキーマ)を、暴力的に抉り出すトリガーだったと考えることができます。

お嬢さんに向かった怒りは、お嬢さんへの悪意ではありません。母親の心の奥底で泣いている「孤独な小さな子ども」の悲鳴の漏出でした。

そしてお嬢さんは、言葉にはならないお母さんのその重たく黒い感情(羨望と孤独)を肌で察知し、自分を守るために再びシャッターを下ろしたという流れです。
この「線」の理解がなければ、親は永遠に自己嫌悪を繰り返し、子どもは親のトラウマの犠牲になり続けます。

【事例4:「正しい対応」で武装する親と、暴れる子ども】

もう一つの生々しいケースは、親が必死に心理学やコミュニケーションを学び、いわゆる「正しい対応」を実践している家庭で起こります。

親は「課題の分離」を意識し、子どもの領域に踏み込まず、アイメッセージで話し、感情的にならずに一貫した態度をとる。

ワークシートを使って自己分析も怠らない。

それなのに、子どもは突然「その顔やめろ!」「どうせ俺のことなんか見下してるんだろ!」と壁を殴り、親を激しく罵倒します。

 

この「点」は、親からすれば「これだけ正しい努力をしているのに、なぜ」という絶望をもたらします。
しかし、線の文脈から構造を読み解くと、別の景色が見えます。

親が身につけた「正しい対応」は、子どもと心を通わせるためのものではなく、親自身の「これ以上家庭が崩壊するのを見たくない」「自分が傷つきたくない」という不安をコントロールするための「防衛の鎧」として使われていたのです。波風を立てないための、効率的で計算された「正しさ」。

子どもは、その「安全圏からテクニックで自分を操作しようとする親の匂い」を野生の勘で嗅ぎ取ります。

子どもの激しい暴力や暴言は、わがままではありません。

「心理学のテクニックで俺を処理するな」「もっと生身で、本音でぶつかってこい」という、作られた秩序に対する切実な抗議活動でした。

目の前の問題行動(点)だけを見て、コミュニケーションの技術を足し算しても意味がありません。

家族の歴史(線)を遡って読み解く。
すると「どう行動させるか」という操作のようなかかわりから、対話へと変わっていきます。

子どもの「問題行動」のようなもとがなぜ発生しているのかがわかってくると、かかわりが変わっていき、子どもは親に「わかってもらえた」に変わり、自然と子どもが「学校に行く」と復学していきました。

 

私は、こういった視点で支援を行っています。

そして、その視点で支援をし、結果的に復学を果たされるケースをたくさんみてきました。

さらに、その先に、「私(親)が生きづらかった理由がわかった」「あんなに憎かったわが子が、こんなにも愛おしく思えるなんて」と喜びをかみしめ、支援を卒業されていきます。

 

私のような支援をしている支援者・背景を持つカウンセラーは、もしかしたらめずらしいかもしれません。

「変わってますよね」とよく言われるのですが、それが私なんだと思います。

「山下先生に出会えてよかった」というお言葉を励みに、今年度も全力でご家庭を支えていきたいと思います。

 

それでは、今回はこれで終わりたいと思います。

さいごまでお読みいただきありがとうございました。また次回のブログもお読みいただけると嬉しいです!

まいどん先生(公認心理師)

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