不登校・母子登校で自分を責めるお母さんへ。子どもを変える前に本当に必要なこと

不登校・母子登校で自分を責めるお母さんへ。子どもを変える前に本当に必要なこと

不登校・母子登校で自分を責めるお母さんへ。子どもを変える前に本当に必要なこと

いま、不登校は決して珍しい出来事ではなくなっています。

文部科学省の公表では、令和6年度の小中学校の不登校児童生徒数は約35万4千人で過去最多となり、

小学校では約44人に1人、中学校では約15人に1人という規模になっています。

 

つまり、母子登校や行き渋りや不登校は、ある特別な家庭だけに起こる異常事態ではなく、いまの社会の中で無視できない広がりをもつ現実です。

けれど、数が多いからといって、その一人ひとりの苦しみが軽くなるわけではありません。

むしろ、これだけ広がっているのに、当事者の母親がどれほど孤独かという事実のほうが、私は重いと思っています。

 

不登校・母子登校の「光が見えない状況」とは、どういうことなのか

これは、ただ子どもが学校に行かない、という一点のことではありません。

朝が来るたびに緊張し、前日の夜からすでに翌朝のことが怖くなり、

朝になると子どもの表情、足取り、声のトーン、食欲、腹痛、頭痛、沈黙、そのすべてが「今日行けるかどうか」の兆候として迫ってくる。

行けたら行けたで、教室まで入れるのか、保健室で止まるのか、別室になるのか、途中で呼び出しが来るのか、帰宅後に荒れるのかが気になる。

行けなければ行けないで、担任への連絡、提出物、周囲への説明、家の中の空気、兄弟姉妹への影響、その全部を引き受けることになる。

 

つまり、見通しが立たないことそれ自体が生活全体を侵食していくのです。

夜眠っても休んだ感じがしない。休んでいるようで、脳も身体もずっと待機状態にある。

これが、母子登校や不登校の家庭で起きている「光が見えない」という状態です。

文科省の実態調査でも、子どもが学校に行きづらいと感じ始めてから実際に休み始めるまでが1か月未満または1〜6か月未満だったケースが約半数あり、

その間に家族には相談しても、4割前後は誰にも相談していませんでした。

つまり、苦しみは早い段階で始まるのに、言葉にならないまま本人の中で濃くなっていくのです。

 

「いつまで続くのか」という不安が、母親の心と身体を少しずつ削っていく

「いつまで続くのか」という不安は、ふつうの悩み方とは少し違います。

たとえば受験なら、結果が出る時期があります。

病気なら、治療方針や経過の見通しがある程度は示されます。

けれど母子登校や不登校は、「来週にはよくなるのか」「半年後はどうか」「このまま中学、高校まで続くのか」「就職はどうなるのか」「この子は人と関われるようになるのか」と、時間の輪郭そのものが崩れていきます。未来が怖いのではありません。未来が、どこにも引っかからないのです。

 

今日をしのげば明日が来る。

でも明日をしのいでも、その先に何があるのかが見えない。

だから母親は、今日のことを考えているつもりで、実際には十年先の破局まで同時に考えてしまう。

注意や思考の切り替えにはコストがあり、複数課題を行き来するほど処理効率が落ち、脳の制御資源は消耗しやすくなります。

母子登校の母親が異常に疲れるのは、気持ちの問題だけではなく、

日々の中で「今朝の支度」「学校との連絡」「夫との調整」「仕事の穴埋め」「将来への不安」を絶えず切り替え続けているからでもあります。

 

励まし、共感、ご褒美、厳しさ…これまで試してきた方法は、なぜうまくいかなかったのか

この段階で、多くの親御さんはすでに、いろいろな方法を試しています。

 

まずは励ます。「大丈夫だよ」「少しずつでいいよ」と言う。

次に褒める。「玄関まで行けたね」「今日は教室の前まで行けたね」と小さな変化を承認する。

あるいはご褒美をつける。「行けたら好きなものを買おう」と提案する。

逆に厳しくもしてみる。「いつまでこうしてるの」「甘えていたら余計に行けなくなるよ」と現実を突きつける。

病院やスクールカウンセラーに相談する。本やSNSを読み、発達特性や愛着や起立性調節障害やHSCやトラウマや家族関係について学ぶ。

フリースクールや別室、教育支援センター、オンライン学習、出席扱いの制度も調べる。

 

どれも、そのときは本気です。藁にもすがる気持ちで、「今度こそ糸口になるのではないか」と期待して試しているのです。

文科省の実態調査でも、勉強がわからないことが学校に行きづらさを強める一因として挙げられ、保護者は学校によるオンライン学習支援の不足を強く不満として回答していました。つまり、多くの家庭は何もしていないのではなく、すでに相当な努力と試行錯誤をしているんです。

それでも裏切られた感じが残るのは、方法が全部まちがっていたからではありません。

タイミングも、子どもの状態理解も、家族の足並みも、学校側の力量もそろわない中で、方法だけが先に独り歩きするからです。

励ませば「わかってない」と言われ、共感すれば「結局どうしたらいいの」と詰まり、休ませれば長引くのではと怖くなり、押せば関係が悪化する。

スクールカウンセラーがいても継続につながらないことがあるし、家庭訪問も子どもの状態や意向を無視するとかえって関係を悪くしうる。

文科省の支援資料でも、不登校支援の記録には「本人の意向」「保護者の意向」「確認・同意事項」を明記する枠組みが置かれており、令和元年の通知でも、家庭訪問やカウンセリングを含む支援は個々の状況に応じて行うことが求められています。早く動けばいいのではなく、本人の状態と同意を踏まえて動かなければ、支援が介入ではなく侵入になってしまうのです。

 

母親はどんなふうに自分を責め、どんなふうに子どもを責めてしまうのか

そうなると、母親は自分を責め始めます。

 

あのとき無理にでも行かせたほうがよかったのではないか。

いや、あのとき休ませたから長引いたのではないか。もっと早く気づけたはずではないか。

発達のことを見落としていたのではないか。愛着に問題があったのではないか。叱りすぎたのか。甘やかしすぎたのか。

働いていたからか。逆に、子ども中心にしすぎたからか。

…母親は、過去の自分の言動を何百回も再生して、自分を裁きます。

 

この自責は、単なる反省ではありません。

原因が一つに定まらない現象に対して、せめて自分のせいにしてでも、何とか制御可能な世界に戻したいという必死さでもあるのです。

日本の当事者研究でも、不登校の子をもつ母親は強い自責にとらわれ、学校に通わせて当然という社会規範に苦しめられ、地域から孤立しやすいことが示されています。

でも、自分を責め続けることは、やがて子どもを責めることにもつながります。

口では責めていないつもりでも、目線、ため息、沈黙、比較、焦りのにじんだ声色は子どもに伝わります。

「どうしてみんなと同じように行けないの」「昨日は行ける感じだったじゃない」「ゲームはできるのに、どうして学校は無理なの」「本当は行けるんじゃないの」といった言葉が出ることもあると思います。あるいは、もっと静かな形で責めることもあります。

必要以上に機嫌を取る、腫れ物のように扱う、兄弟姉妹に「今はこの子が大変だから」と我慢を強いる、学校の話題だけ家の空気が凍る。

その全部が、子どもには「私は問題として扱われている」という感覚になります。

学校に行けないことより、自分の存在そのものが家族に迷惑をかけていると感じたとき、子どもはさらにこころを閉ざします。

学校拒否の背景を整理した系統的レビューでも、不安症状だけでなく、家族・学校・社会文脈を含む44の関連要因が確認されており、単純に「本人のやる気」に還元できる問題ではないことが示されています。

 

夫婦喧嘩、親族との軋轢、ママ友や近所の視線…母子登校が家庭の外にもたらす痛み

夫婦喧嘩も起きます。たいてい、論点は表面上は別の形をとります。

「あなたは甘い」「あなたは厳しすぎる」「現実が見えてない」「仕事を理由に逃げてる」「いつも私ばかり学校とやり取りしている」「子どもの前でそんな言い方をするな」。

…けれど本当は、二人とも怖いのです。

母は毎日子どもの変化を浴びているから焦る。父は家の外側から見ているぶん、危機感がずれたり、逆に「普通」を回復させようとして強く出たりする。

あるいは父が救済者の位置に立って子どもの味方をし、母だけが悪者になることもある。

逆に父が距離を取り、母だけが実務と情緒の両方を背負って燃え尽きることもある。

 

当事者研究では、学校との交渉や生活ケアや精神的負担を母親が多く引き受け、その結果、就労まで不安定になるという「夫の不在」の問題が描かれています。

これは「父親が悪い」という単純な話ではありません。家庭の中で負担がどこへ集中しやすいか、役割がどう固定化されるかという構造の問題です。

 

さらに苦しいのは、親族や近所やママ友とのやり取りです。

夫の親からは「昔はそんな子いなかった」「一度厳しく言えばいい」「家に置いておくから余計だ」と言われる。

自分の親からは「あなたが神経質すぎるのでは」「考えすぎでは」と返される。

兄弟姉妹からは、「うちの子は普通に行っているよ」と悪気なく言われる。

近所の人やママ友からは、「最近見ないね」「体調悪いの?」と聞かれるだけで胸がざわつく。嘘もつきたくない。説明もしたくない。

 

でも正直に話せば、妙な同情か、薄い理解か、余計な助言が返ってくる。

こうして母親は、人と話すほど孤独になることがあります。

 

不登校の母親の経験を整理したスコーピングレビューでも、

母親の体験は【関係性の喪失】【認識や行動の転換と葛藤】【関係性の再構築】という段階をとり、

学校や家族、周囲との関係の揺らぎの中で進むことが示されました。孤立は、気の持ちようではなく、関係のレベルで起きているのです。

 

学校の先生やスクールカウンセラーとのやり取りで、なぜ深く傷ついてしまうのか

学校とのやり取りも、親を深く傷つけます。

もちろん、学校の中には丁寧に支えてくれる先生もいます。

実際、文科省調査では、安心して相談できる先生の存在やスクールカウンセラーとの相談によって気持ちが楽になったという子どもの回答があり、保護者も専門スタッフ面談や別室環境、学校外機関の紹介を評価しています。けれど逆に、親子を追い詰める関わりもあります。

 

出席日数や成績や提出物ばかりを急ぎ、子どもの内面より管理を優先する対応。

保護者の不安を受け止めるより、「とにかく連れてきてください」と結論だけを押す対応。

母親にだけ責任があるかのような言い方。

研究でも、教師から「家にいては社会性が育たない」といった一方的な言葉を向けられ傷ついた母親の経験が報告されています。

よい学校支援は、子どもを学校へ戻すためだけに存在するのではなく、親子がもう一度外部とつながれるように関係の足場をつくることにあります。

 

スクールカウンセラーについても、同じことが言えます。

いるだけでは機能しません。子どもにとっては、誰と、どの距離で、どのペースで、何を話してよいかが大事です。

親にとっては、「安心してください」と言われることよりも、何が起きていて、いま何を見立て、どこを動かすとよいのかが知りたい。

 

共感だけでは足りないし、正論だけでも壊れそうになることもあります。

必要なのは、子どもの主観と家庭の現実の両方を見ながら、見立てを更新し続けることです。

 

家族療法の文脈でも、問題を単独の原因に還元するのではなく、相互作用のパターンを見て、何が問題を維持しているのか、何が解決を促すのかに注目します。家族療法は「家族を悪者にする学問」ではなく、家族を一つの相互作用のシステムとして理解し、その中にある資源を動かしていくアプローチです。

 

ここで私は、「問題の原因探し」と「問題維持システムの理解」を分けて考える必要があると思っています。

原因探しは、多くの場合、犯人探しに変わりやすいです。

誰が悪かったのか、どこが失敗だったのか、何が元凶か。

これは一見わかりやすいのですが、家庭を硬直させやすいです。

 

対して、問題維持システムを見るとは、いま何が起きると子どもがこころを閉ざすのか、何が起きると母が焦るのか、何が起きると父が引くのか、学校はどの局面で圧をかけやすいのか、家の中の会話はどこで詰まるのかを丁寧に見ることです。

家族療法の文献でも、家族療法は単一の原因を特定することより、相互作用のパターンと問題の維持・解決に関心を向けるとされています。

だから私は、親を責めたいのではありません。

現状を正確に理解し、どこからなら問題維持システムを問題解決システムへ変えていけるかを見たいのです。

 

不登校・母子登校は、お金と時間と社会的つながりを静かに奪っていく

お金と時間の問題も、見落としてはいけません。母子登校は、ただの付き添いではありません。

朝の送り迎え、学校との面談、途中呼び出しへの備え、病院や相談機関への受診、別室や支援センターの見学、教材やオンライン環境の整備、時には民間支援の利用料まで、静かに家計と時間を削っていきます。仕事も、中抜け、遅刻、欠勤、シフト調整、退職の検討につながりやすい。

働く親にとって、学校拒否の子を支えることは日常的に大きな時間的・情緒的エネルギーを要し、職場での生産性やメンタルヘルスにも影響しうると報告されています。

文科省資料でも、民間施設の利用料等の保護者負担が大きく、継続利用につながらないことが課題として挙げられています。つまり母子登校は、気力だけでなく、生活基盤そのものを削る問題です。

 

「○○ちゃんママ」と呼ばれ続ける中で、母親は自分の輪郭を失っていく

そのうえで、母親はしばしば自分のアイデンティティを失います。

 

学校では「○○ちゃんのお母さん」。

地域でも「不登校の子の親」。

家では、支援者、連絡係、調整役、見守り役、時にはサンドバッグ。

自分の名前、自分の好き嫌い、自分のペース、自分の仕事、自分の世界が後景に退いていく。

 

子育てそのものが悪いのではありません。

けれど、母子登校の長期化は、母親を「子どもの問題を背負う器官」に変えやすいのです。

当事者研究では、母親たちが「母親としてのジェンダー役割」を強く引き受けさせられ、地域や学校の中でマイノリティとして生きる困難が可視化されています。

親子支援において母親個人への心理支援や母親同士の居場所が必要だとされるのは、そのためです。

 

脳には可塑性がある。だからこそ、親の側の回復が支援の土台になる

ここで、私はあえて「親御さんの脳機能の回復が鍵になる」と言いたいです。

もちろん、これは医療診断としての脳機能障害という意味ではありません。

慢性的な不安、睡眠不足、絶え間ないタスク切り替え、先の見えない緊張の中では、注意の安定、感情調整、見立ての更新、つまり親として必要な「考える力」そのものが落ちやすいんです。

研究でも、作業記憶は一時的に目標やルールを保持する精神的ワークスペースであり、課題切り替えには明確なコストが生じることが示されています。

さらに、ストレスや社会的環境は脳の可塑性に影響しうる一方、介入や訓練、環境調整によって変化は起こりうることも示されています。

だから、親子支援とは、子どもだけを変える作業ではなく、親が再び落ち着いて観察し、判断し、関われる状態を取り戻す作業でもあるのです。

 

脳には可塑性があります。これは、「何でもすぐ元通りになる」という楽観ではありません。

経験や環境や練習によって、脳と行動は変化しうる、という意味です。母親の脳も例外ではありません。

人の親になること自体が、母親の脳に動的な変化をもたらし、育児への適応を支えることが示されています。

同時に、その時期はストレスに対して脆弱でもあり、介入に対して受け取りやすい時期でもあります。

だから私は、母子登校に苦しむ母親に対して、「あなたはもうダメだ」ではなく、「あなたはいま過負荷の中にいて、回復しうる」と考えたい。

原因を理解し、環境を整え、関係の持ち方を変え、思考と感情の癖を見直していくことは、精神論ではなく、可塑性に賭ける取り組みです。

変化は一夜にしては起きませんが、急いで正しい言葉を覚えることではなく、繰り返しの中で在り方が変わることが必要だとわたしは考えます。

 

愛情の反対は無関心。子どもの心を「観察する」ということ

ここで大事になるのが、「心を観察する」ということです。

私は、愛情の反対は単純な怒りではなく、無関心に近いと感じています。怒ってしまう親も、実は苦しいほど関心があることが多い。

けれど、関心が高いことと、観察できていることは違います。

母子登校の家庭では、子どもを見るとき、つい「今日行けるか」「昨日よりマシか」「このまま将来どうなるか」という評価や予測が先に立ちます。

すると、子どもの心は「観察の対象」ではなく、「管理の対象」になりやすい。

 

そうではなく、今日はどこで表情が曇ったか、何の言葉で身体が固まったか、どの場面では少し息が戻ったか、誰の前ならまだ声が出るか、何を失うのが怖いのか、何を守ろうとしているのかを見ていく。これはテクニックではありません。経験のいることです。

だからこそ支援が要る。観察とは監視ではなく、相手の主観へ近づくための忍耐です。

 

過去の自分から目をそらさないことが、目の前の子どもを理解する力になる

私が「第二の私をつくりたくない」と思うのは、ここに関係しています。

過去の自分の状況から目を背けたままでは、いま同じような苦しみの中にいる子どもを、本当の意味で理解することができない。

 

親から理解されなかった感覚、気持ちを言葉にしても届かなかった感覚、助けを求めても別の問題にすり替えられた感覚。

その痛みを、自分の中でなかったことにしてしまうと、目の前の子どもの沈黙や苛立ちや無気力を、ただの反抗や甘えや未熟さとして片づけやすくなります。

 

人は他人を通して自分を知り、自分を通して他人を知る。

 

だから、自分が理解されなかった歴史に触れ直す作業が必要になります。

そして、この感覚が研ぎ澄まされてくると、自然に子どもの内面へ向き合う姿勢が生まれます。

 

「なんでこの子はこうなんだろう」と責めるのではなく、「この子は何を守るためにこうなっているのだろう」と見るようになる。

ここで見えてきたことを親御さんに返したとき、時々「なんでこの子の気持ちがそこまでわかるの」と言われることがあります。

私は、これは特別な霊感のようなものではなく、参照データの質の問題だと思っています。

 

自分の痛みをくぐり、目の前の人の内側と外側を行き来しながら、見立てを更新し続けること。その積み重ねが、他人の心の動きをつかみやすくする。

きちんと訓練されたとき、その過去は理解の解像度を上げる参照データになります。

 

ただし、ここで気をつけなければならないのは、主観だけで突っ走らないことです。自分はわかったつもりになりやすい。

だから、相手の内側へ入り込む取り組みと同時に、その子が置かれた外側の状況、学校、家族、発達特性、学習のつまずき、友人関係、身体症状、家庭内の役割、学校の対応を集め続ける必要があると思います。私は、一度で当てることではなく、仮説を何度でも上書きすることが大事だと考えています。

学校拒否をめぐる研究でも、個人要因だけでなく、家族・学校・社会文脈を含めた生態学的理解と、多職種・多機関連携の必要性が強調されています。理解とは、「私はもうわかった」と言い切ることではなく、「まだ見えていない部分がある」と保留しながら、それでも近づき続けることです。

この意味で、私は科学を軽んじているのではありません。実証研究は大切です。脳の可塑性も、注意制御も、学校拒否の関連要因も、家族支援の有効性も、研究は多くのことを教えてくれます。けれど、数値化できることだけが現実ではない。

親子のあいだに流れる沈黙、言葉にならない怒り、朝の玄関の空気、学校からの一本の電話で家の温度が変わる感じ、そういうものは、統計だけでは扱いきれません。

だから私は、客観を捨てるのではなく、客観と主観を行き来しながら見ていく必要があると思っています。

量的データが全体の地図を与え、質的理解が目の前の一人を見失わないようにする。その両方が必要です。

母親の経験を扱った日本の質的研究が、関係性の喪失や転換や再構築を明らかにしていること自体が、その証拠でもあります。

 

親が変われば子どもも変わる、は本当か

では、親が変われば子どもも変わる、とはどういうことでしょうか。

 

私はここに二つのレベルがあると思っています。

口先レベルの変化

一つは口先レベルです。

言葉がけを変える。共感的に話す。否定を減らす。選択肢を出す。これはもちろん大事です。

でも、それだけでは、学校に少し行けるようになった途端に元に戻ってしまうことがある。

 

在り方レベルの変化

もう一つは在り方レベルです。

なぜ私は焦るのか。なぜ結果で安心しようとするのか。なぜ子どもの不安を前にすると、正論か過干渉のどちらかに振れやすいのか。

なぜ夫と対立すると、子どもをめぐる三角関係が起きるのか。

なぜ私は、子どもの気持ちを聞いているつもりで、自分の不安を処理していただけなのか。

こうした自分の癖を、時間をかけて見つめ、修正していく。

 

この「課題に向き合う態度」そのものを、子どもは見ています。口先ではなく在り方が変わると、子どもははじめて「この人は前と違う」と感じるのです。

 

その変化は、復学だけを目的にしていると起こりにくい。もちろん、学校に戻ることは大切です。

けれど、復学だけをゴールにすると、学校へ行けたかどうかが親子関係の価値を決めてしまうことがあります。

すると、登校はできても、信頼は壊れたまま、あるいは別の場面で症状が出ることがある。

だから私は、復学を否定しませんが、通過点として捉えたいです。

不登校や母子登校をきっかけに、親子が「問題を管理する関係」から「一人の人間として出会い直す関係」へ移れるかどうか。

そこまで行って初めて、変わり切るということに近づくのだと思います。

日本の質的研究でも、母親の転換は「登校させる対応から見守る対応への転換」「不登校の肯定的意味への気づき」「ひとりの人間としての関係性の構築」として整理されています。

 

支援が必要なのは、親が悪いからではなく、自己流では見えない盲点があるから

だから、私が家庭共育を発信するときも、本当の目的は売り込みではなく教育(共に育つ)です。

父性が大事だと言うなら、なぜそれが母子登校と関係するのか、父性とは怒鳴ることではなく何を引き受けることなのか、なぜ今の時代にはその学びの場が乏しいのか、実際にそれを学び直した親御さんの家庭で何が変わったのかまで伝えなければいけない。けれど同時に、自己流には限界があることも伝えなければいけない。

なぜなら、人は自分の主観からしか世界を見られず、自分の家庭の当たり前の中にいると、その歪みや硬さに気づきにくいからです。

だから支援は、「あなたがダメだから受けてください」という話ではありません。自分一人では見えない盲点を、一緒に見つけにいく作業です。

私は、過去に支援と家庭教育コンテンツを切り離しすぎた結果、家庭教育の重要性だけが一人歩きし、自己流で誤ったアプローチを深めてしまう親御さんも見てきました。

そのたびに、「第二の私をつくりたくない」という思いが強くなります。知識は大事です。でも知識だけでは変わらない。

関係の中で見立てを受け取り、自分の癖を見抜かれ、修正し、また失敗し、もう一度やる。

その繰り返しの中でしか、在り方は変わっていきません。子どもの未来を守りたいと思うなら、親の善意だけでは足りない場面がある。そのことを、私はきれいごとではなく現実として伝えたいです。

最後に。母子登校の先にある「変わり切る」ということ

最後にもう一度言います。母子登校や不登校は、親の育て方を断罪するための言葉ではありません。

けれど、親が無関係だという意味でもありません。親子の関係、夫婦の関係、学校との関係、親自身の傷つき、生活の過負荷、そうしたものが絡み合って問題維持システムをつくっているなら、それを変える入口は必ず関係の中にあります。私は、犯人探しをしたいのではありません。いま何が起きているかを、できるだけ正確に理解したいです。

学校に行けるようになることは大切です。でもそれ以上に、子どもが「この家には自分をわかろうとしてくれる人がいる」と感じ直せること、親が「私はもう、ただの管理者ではない」と取り戻せること、その回復のほうが深い。そこから始まる変化は、復学だけで終わらないからです。

 

 

それでは、今回はこれで終わりたいと思います。

さいごまでお読みいただきありがとうございました。また次回のブログもお読みいただけると嬉しいです!

まいどん先生(公認心理師)

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