
子どもが学校に行けなくなってから。
家庭は、愛だけでは回らない。
いや、愛はある。
あるにはある。
でも、愛があっても、朝の支度は終わらない。
愛があっても、保育園の連絡帳は未記入のままでは提出できない。
愛があっても、子どもが「この靴下じゃない」と言い出せば、玄関は即座に関ヶ原になる。
だから家庭には、流れがいる。
誰が何をするのか。
どこまで親が手を出すのか。
どこから子どもに任せるのか。
困ったとき、誰が声をかけるのか。
誰が黙って見守るのか。
誰が余計な一言を飲み込むのか。
最後の「余計な一言を飲み込む係」は、だいたい私が担当している。
そして、ときどき任務に失敗する。
「だから言ったやん」
この一言である。
言った瞬間に、自分でもわかる。
いまの、いらんかったな。
でも、出てしまった言葉は、もう空中にいる。
ちいさな蚊みたいに、ぷーんと飛んでいる。
叩き落としたい。
でも叩き落とせない。
娘(まもなく3歳)はその言葉を聞いて、むっとする。
私はその顔を見て、さらに焦る。
そしてなぜか、靴下ひとつの話が、人生全体の敗北みたいになっていく。
こんな小さなことでも、家庭の流れはすぐ乱れる。
まして、子どもが学校に行けなくなった家庭なら、なおさらだと思う。
朝が来る。
親はもう、その時点で緊張している。
子どもが起きるか。
起きても着替えるか。
着替えてもご飯を食べるか。
ご飯を食べても玄関まで行くか。
玄関まで行っても、靴を履くか。
靴を履いても、ドアを開けるか。
一日が、細かい関門だらけになる。
しかも、その関門のどこで止まるかは、当日にならないとわからない。
今日は布団。
昨日は洗面所。
一昨日は玄関。
先週はランドセルの前。
その前は、なぜか靴下。
親は毎朝、目に見えないすごろくをしているようなものだ。
サイコロを振る。
「今日は三マス進めるかな」と思う。
でも突然、「ふりだしにもどる」が出る。
何回ふりだしに戻ればいいのか。
どこまで戻れば、もう一度やり直せるのか。
親だって、しんどい。
不登校の家庭では、いつのまにか子どもが家の中心になることがある。
もちろん、子どもが大切だからだ。
心配だから見る。
傷ついているから守る。
学校に行けないから気になる。
将来が不安だから、目が離せない。
でも、見れば見るほど、子どもは家の中心に置かれていく。
子どもが起きたら、家の空気が変わる。
子どもが不機嫌なら、家の空気が沈む。
子どもが「行く」と言えば、親が希望を持つ。
子どもが「やっぱり無理」と言えば、親の胸が沈む。
子どもは、ただ学校に行けないだけではなく、家庭の天気予報まで担当することになる。
晴れ。
くもり。
大雨。
警報級の荒れ。
そんなものを、子どもに背負わせたい親はいない。
でも、気づいたらそうなってしまう。
私も娘を育てながら、何度も思う。
娘を見ているつもりで、娘に自分の安心を預けていないか。
娘が機嫌よくしていると、私はいい母になれた気がする。
娘が荒れると、私は何かを間違えた気がする。
たった3歳の子に、私の母親としての合否判定をさせようとしている。
いやいや、まだひらがなも全部読めない人に、そんな採点をさせるな。
そう自分につっこむ。でも、やってしまう。
子どもが落ち着いていると、親は安心する。
子どもが乱れると、親も乱れる。
それは自然なことだけれど、そこに飲み込まれすぎると、家の中心が子どもの状態になってしまう。
だから、家庭には大人の軸がいる。
親が偉そうにするという意味ではない。
子どもを支配するという意味でもない。
子どもが泣いても、荒れても、止まっても、信頼関係は崩れないんだよという空気を、大人が持つということだと思う。
ただ、言葉で言うほど簡単ではない。
私なんて、娘が牛乳をこぼしただけで、心の中の日本列島が揺れる。
でも、こぼれた牛乳を前に、私がこの世の終わりみたいな顔をしたら、娘は思うかもしれない。
牛乳をこぼすというのは、世界を滅ぼす行為なのだ、と。
それは困る。
牛乳は、拭けばいい。
でも、親の顔色から学んだ怖さは、意外と長く残る。
だから私は、自分に言い聞かせる。
これは牛乳。
これは世界の終わりではない。
これは牛乳。
これは私の人格の敗北ではない。
これは牛乳。
白い液体。
不登校の朝も、きっと似ている。
子どもが止まる。
親の中では、いろんなものが一気に噴き出す。
またか。
昨日は行くって言ったのに。
仕事どうしよう。
学校に何て言おう。
このまま将来どうなるんだろう。
私の育て方が悪かったのかな。
夫はどうせわかってくれない。
もう疲れた。
子どもが玄関で止まっているように見えて、親の中では、過去と未来が一斉に走り出している。
だから、親が落ち着けないのは当然だと思う。
でも、その親の嵐をそのまま子どもにぶつけると、子どもはますます動けなくなる。
子どもは玄関で止まっているだけではない。
親の落胆も、怒りも、不安も、ぜんぶ浴びている。
「行けない自分」だけでも苦しいのに、そこに「親を苦しめている自分」まで乗ってきて、重い。
この子はいつから、こんなふうに固まるようになったのだろう。
あなたは、たぶん何度も考えたことがある。
朝、制服は着た。
靴下も履いた。
ランドセルも背負った。
水筒も入れた。
連絡帳も書いた。
体操服も、上履きも、給食袋も、全部そろっている。
あとは玄関を出るだけ。
本当に、あと一歩。
なのに、その一歩が出ない。
子どもは玄関で止まる。
靴を履いたまま、動かない。
ドアノブの前で、固まる。
さっきまで普通に話していたのに、急に顔が消える。
「どうしたの?」と聞いても、答えない。
「行けそう?」と聞いても、答えない。
「無理なら無理でいいよ」と言うと、少しだけうなずく。
でも、そのうなずきがまた、こちらの心をえぐる。
「無理なら無理でいいよ。」
そう言ったのは自分なのに、心の中では、ぜんぜんよくない。
よくない。
よくないに決まっている。
こっちは今日、仕事の時間をずらしている。
学校には昨日、「明日は行けそうです」と言ってしまった。
担任の先生も、たぶん待っている。
玄関には、出発できる準備だけが完璧に整っている。
これで行かないのか。
いや、言わない。
言わないけれど、顔には出る。
親の顔というのは、思っているより情報量が多い。
「大丈夫だよ」と口では言いながら、目元に「またか」が出る。
口角に「昨日は行くって言ったよね」が出る。
眉間に「このままどうなるの」が出る。
子どもは、そういう親の気持ちを読む。
読まなくていいのに、読む。
まだ漢字ドリルは空欄だらけなのに、親の顔だけは読む。
なぜそこだけ読解力が高いのか。
国語のテストにも出ないのに。
そしてあなたは、また自分を責める。責めたくて責めているわけではない。
ただ学校に行ってほしいだけではない。
行けるなら行ってほしい。
そりゃ行ってほしい。
でも、それ以上に、こんな朝をもう終わりにしたい。
毎朝、子どもの様子を見るところから一日が始まる生活。
布団の膨らみを見ただけで、今日の難易度を測る生活。
子どもが起きてくる足音で、天気予報みたいに家庭の空気を読む生活。
「おはよう」の声色ひとつで、今日行けるかどうかを占う生活。
つらい。
朝が来るのが、こわい。
夜になって、子どもが少し明るくなると、ほっとする。
一緒にテレビを見て笑ったりする。
お風呂上がりにアイスを食べたりする。
「あ、今日は少し戻ってきたかも」と思う。
そして、子どもが言う。
「明日は行く」
あなたは、うれしい。
うれしいけれど、うれしすぎるのが怖い。
期待すると、折れるから。
何度もあった。
「明日は行く」
「月曜から行く」
「二時間目から行く」
「給食だけ行く」
「保健室なら行ける」
「やっぱり無理」
何度も、希望を小さく畳んできた。
最初は「教室に行けたら」と思っていた。
次に「学校の門まで行けたら」と思った。
その次に「制服を着られたら」と思った。
そのうち「朝、泣かなかったら」と思うようになった。
最後には、「とりあえず今日は暴れなかったからよかった」と思う日も出てくる。
希望のサイズが、どんどん小さくなる。
最初はホールケーキくらいあった希望が、最後はカステラの端っこみたいになる。
それでもあなたは、その端っこを大事にラップで包んで冷蔵庫に入れる。
明日こそ。
明日こそ、食べられるかもしれないから。
でも朝になると、また固まる。
そしてあなたは思う。
この子は、いったい何をそんなに怖がっているのだろう。
学校の何が嫌なの。
先生なの。
友達なの。
勉強なの。
給食なの。
教室のざわざわなの。
体育なの。
休み時間なの。
登校班なの。
それとも、全部なの。
聞いても、「わからない」と言う。
その「わからない」に、あなたはまた困る。
わからないって何。
こっちもわからない。
わからない同士で向かい合って、朝のリビングに無言の鍋が煮える。
ぐつぐつ。
焦げつきそう。
でも火の止め方がわからない。
子どもは本当に、わからないのかもしれない。
うまく言えないのかもしれない。
言ったら親を傷つけると思っているのかもしれない。
言葉にした瞬間、自分でも崩れてしまいそうで怖いのかもしれない。
そもそも、学校の何かひとつが嫌なのではなく、学校へ行く自分になることがもう苦しいのかもしれない。
学校へ行くというのは、ただ建物に入ることではない。
朝、教室のドアを開ける。
何人かがこっちを見る。
「久しぶり」と言われる。
何も言われなくても、見られた気がする。
席に座る。
授業が始まる。
ノートの空白が目に入る。
休んでいた分がわからない。
先生の声が遠い。
友達の笑い声が刺さる。
給食の匂いが重い。
休み時間が長い。
帰るまで、何でもない顔をしなければならない。
その全部を、玄関で一気に想像しているのだとしたら。
親から見れば、あと一歩。
子どもから見れば、崖。
こちらは「ドアを開けるだけ」と思っている。
子どもは「崖から飛ぶ」と思っている。
でも、親からは崖が見えない。
玄関しか見えない。
靴が見える。
ランドセルが見える。
時計が見える。
学校までの道が見える。
遅刻の時間が見える。
先生に連絡する自分が見える。
職場へ謝る自分が見える。
だから焦る。
親には親の崖がある。
職場への連絡。
学校への連絡。
祖父母からの言葉。
夫婦の温度差。
きょうだいへの影響。
将来への不安。
お金。
時間。
自分の体力。
自分の心。
あなたも、毎朝、別の崖の前に立っている。
だから、「落ち着いて対応しましょう」なんて言われると、腹が立つことがある。
落ち着けるなら、とっくに落ち着いている。
こちらは毎朝、心の中で非常ベルが鳴っている。
赤いランプが回っている。
避難訓練ではない。
本番である。
それでも、あなたはやっている。
朝ごはんを出している。
声をかけている。
学校に連絡している。
子どもの顔色を見ている。
自分の感情を飲み込んでいる。
夫に説明している。
先生に説明している。
親戚の何気ない一言に傷ついている。
夜中に検索している。
検索しすぎて、さらに傷ついている。
「不登校 親 対応」
「不登校 甘やかし」
「不登校 母親 疲れた」
「不登校 将来」
「不登校 復学」
検索窓に、本音を打ち込む。
誰にも言えない言葉を、検索窓には言える。
Googleだけが、深夜のあなたの本音を知っている。
Google、もはや親友である。
ただし毎回、余計に不安になる記事も出してくる。
親友としては、やや配慮に欠ける。
あなたは、いろんな方法を試したと思う。
共感した。
見守った。
励ました。
休ませた。
生活リズムを整えようとした。
ゲームのルールも作った。
スクールカウンセラーにも相談した。
担任にも話した。
夫婦で話し合おうとした。
でも話し合いが、途中から責任のなすりつけ選手権になった日もある。
「もっと厳しくしたほうがいいんじゃない?」
「じゃああなたが朝やってよ」
「俺は仕事がある」
「私もあるけど」
「でも普段見てるのはそっちでしょ」
「だから相談してるんだけど」
夫婦の会話というものは、なぜこんなにも簡単に可燃物になるのか。
母親だから。
近くにいるから。
子どもがあなたには言うから。
学校からの電話もあなたに来るから。
子どもの小さな変化に、母親であるあなたが一番気づいてしまう。
気づいてしまう人が、いちばん疲れる。
気づかない人は、簡単に言う。
「気にしすぎじゃない?」
「放っておけば?」
「そのうち行くでしょ」
「甘えてるだけじゃない?」
「親が不安そうにするからだよ」
言われるたびに、あなたは笑う。
「そうですよね」
「私もそう思うんですけどね」
「なかなか難しくて」
笑いながら、心の中でちゃぶ台をひっくり返している。
そのちゃぶ台には、味噌汁も乗っている。
漬物もある。
昨日の残りの肉じゃがもある。
全部飛ぶ。
でも現実では、ひっくり返さない。
大人だから。
大人というのは、心の中で何度もちゃぶ台を返しながら、現実では洗濯物を干す生き物である。
あなたは、そうやって毎日を回している。
だから、子どもの行動をただの「行った」「行かなかった」だけで見てしまう日があっても、不思議ではない。
今日は行った。
今日は行かなかった。
今日は泣いた。
今日は怒った。
今日はゲームをした。
今日は少し笑った。
今日は先生と話せた。
今日はまた布団から出なかった。
毎日が、結果発表みたいになる。
合格。
不合格。
少し前進。
また後退。
親としては思う。
その集中力があるなら、漢字を一行だけでも書いてくれ。
なぜ敵の名前と武器の性能は覚えられるのに、明日の時間割は覚えないのか。
その反射神経で、朝の着替えをしてくれ。
なぜゲームに逃避するのか
現実の世界は、ゲームのようにはならない。失敗する。
遅れる。
見られる。
比べられる。
責められる。
説明しなければならない。
でもゲームの中では、失敗してもやり直せる。
自分のペースで進める。
強くなれば結果が出る。
誰かとつながれる。
現実より、ずっとルールがわかりやすい。リセットだってできる。やり直せる。
だから、そこに逃げ込むこともある。
逃げ込む場所が必要なほど、現実がしんどいということもある。
ただ、それを親がひとりで理解し続けるのは難しい。
だって親も疲れているから。
「この子は苦しいんだ」と思う日もある。
「いや、さすがにこれは甘えでは?」と思う日もある。
「見守ろう」と決めた翌日に、「いつまで見守ればいいの」と爆発しそうになる日もある。
親の心は、ブランコみたいに揺れる。
共感と怒り。
心配と苛立ち。
信じたい気持ちと、もう信じるのが怖い気持ち。
待ちたい気持ちと、いますぐ動かしたい気持ち。
その揺れの中で、あなたは子どもに向き合っているんですよね。
「生活リズムを整えましょう」
「親が不安になりすぎないことです」
「学校に行く行かないで一喜一憂しないで」
「子どもの気持ちを受け止めて」
「でも甘やかしすぎないように」
「本人の意思を尊重して」
「でも昼夜逆転はよくないですね」
「ゲームはルールを決めましょう」
「お母さんも休んでください」
そんなの、わかっている。
わかっているから、つらい。
休めと言われても、朝は来る。
受け止めろと言われても、こちらの器はもう味噌汁のお椀くらいになっている。
尊重しろと言われても、尊重していたら午後三時に起きてくる。
ルールを決めろと言われても、そのルールを守らせる気力がもう残っていない。
あなたは、たぶん何度も思ったことがある。
私のやり方が悪いのだろうか。
もっと早く気づけばよかったのだろうか。
あのとき叱りすぎたのだろうか。
逆に、甘すぎたのだろうか。
休ませたのがいけなかったのか。
無理にでも行かせればよかったのか。
夫にもっと任せればよかったのか。
先生にもっと強く言えばよかったのか。
スクールカウンセラーに、あの話もすればよかったのか。
いや、そもそも私が母親でなければ、この子はこんなふうにならなかったのか。
やめたい。
この自分裁判をやめたい。
でも、夜になると始まる。
布団に入って、子どもの寝息が聞こえる。
やっと一日が終わったと思う。
なのに、そこから脳が反省会を開いてる、
眠れない。
子どもは寝ている。
夫も寝ている。
家も寝ている。
でも、母親だけが起きている。
天井を見ながら、スマホを開く。
また検索する。
「不登校 母親 疲れた」
「不登校 復学 きっかけ」
「不登校 親の対応 正解」
「不登校 甘え 見分け方」
「不登校 このまま 将来」
検索窓というのは、すごい。
人に言えない言葉を、なぜか打てる。
友達には言えない。
夫にも言えない。
先生にも言えない。
親にも言えない。
でも検索窓には言える。
「もう無理」
「逃げたい」
「子どもがかわいく思えない」
「不登校 母親 限界」
打ったあとで、自分がこわくなる。
私は、そんなことを思っていたのか。
いや、思っている。
思っているけど、思いたくない。
子どもを愛している。
それは本当。
でも、しんどい。
それも本当。
愛しているのに、腹が立つ。
心配しているのに、顔を見るのがつらい。
助けたいのに、責めたくなる。
わかってあげたいのに、「なんでわかってくれないの」と思ってしまう。
この矛盾を、誰に出せばいいのかわからない。
だって母親だから。
母親は、子どもを受け止める側だと思われている。
いつでもあたたかい味噌汁みたいな存在だと思われている。
でも、実際の母親は味噌汁ではない。
煮詰まる。
吹きこぼれる。
冷める。
たまに具が沈殿する。
それでも、朝になればまた台所に立つ。
子どもが起きてくるかどうかもわからない朝に、卵を焼く。
食べるかどうかわからないのに、パンを出す。
機嫌がいいかどうかわからないのに、「おはよう」と言う。
その「おはよう」ひとつに、どれだけ気をつかっているか。
明るすぎると、うざがられる。
暗すぎると、空気が沈む。
普通に言おうとすると、普通がわからなくなる。
普通のおはようって、何。
おはよう検定があるなら、あなたはもう何度も落ちている気がしている。
でも本当は、毎朝ちゃんと受けている。
落ちても落ちても、受けている。
追試、追試、追試。
しかも試験官は子どもで、採点基準は非公開。
そんなの、つらいに決まっている。
あなたは、たぶん、もう十分がんばっている。
でも「がんばっていますね」と言われるだけでは、足りない。
がんばっていることくらい、自分でもわかっている。
いや、わかっていない日もある。
でも、誰かに「がんばっていますね」と言われた瞬間、涙が出そうになるくらいには、がんばっている。
それでも、現実は動かない。
子どもは今日も起きてこない。
学校からの電話は来る。
プリントはたまる。
机の上に、提出期限の過ぎた封筒がある。
ランドセルの中で、いつのものかわからない給食袋が眠っている。
洗うのがこわい。
開けるのもこわい。
もはや小さな遺跡である。
そういう現実の中で、あなたは生きている。
だから、きれいな言葉だけでは届かない。
「お子さんのペースで」
「焦らず見守って」
「お母さんも自分を大切に」
言っていることは、きっと間違っていない。
でも、あなたはその言葉を聞きながら、心の中でこう思っている。
そのあいだに、出席日数は減っていくんですけど。
勉強は遅れていくんですけど。
私は仕事を休んでいるんですけど。
夫とは気まずくなっているんですけど。
祖父母からは「昔はそんな子いなかった」と言われるんですけど。
近所の子は毎朝ランドセルを背負って歩いているんですけど。
焦らずに、とは。
焦りますけど。
焦りを冷凍保存できるならしたい。
小分けにしてジップロックに入れて、必要なときだけ解凍したい。
でも焦りは、いつも常温で出しっぱなしになっている。
しかも傷みやすい。
すぐ怒りになる。
すぐ涙になる。
すぐ自己嫌悪になる。
あなたは、それを毎日ひとりで処理している。
子どもが部屋にいる。
あなたはリビングにいる。
ドア一枚を挟んで、家の中に時差がある。
子どもの部屋だけ、別の国みたいだ。
ノックしていいのか。
声をかけていいのか。
放っておいたほうがいいのか。
ご飯は持っていくべきか。
下げるべきか。
「食べなさい」と言うべきか。
「あとで食べてね」と置くべきか。
そんなことまで迷う。
夕飯ひとつで、こんなに悩む日が来るなんて思わなかった。
昔は、食べる食べないなんて、もっと単純だった。
「ご飯だよ」
「はーい」
それでよかった。
いまは違う。
「ご飯だよ」と言うだけで、部屋の空気が変わることがある。
返事がない。
二回目を言うか迷う。
三回目はもう怒っている気がする。
でも言わないと、食べない。
食べないと、体が心配。
体が心配なのに、声をかけると嫌がられる。
ご飯とは。
声かけとは。
母とは。
台所で、急に哲学が始まる。
しかも味噌汁は冷めていく。
あなたは、こんな小さな場面で、毎日削られている。
学校に行くかどうかだけではない。
朝起きるか。
ご飯を食べるか。
お風呂に入るか。
歯を磨くか。
着替えるか。
昼夜逆転するか。
ゲームをやめるか。
外に出るか。
先生と話すか。
友達からのLINEを見るか。
プリントに触るか。
生活の全部が、薄い氷の上に置かれる。
あなたはその氷の上を、そっと歩いている。
でも、ときどき割れる。
割れると、冷たい水に落ちる。
子どもも落ちる。
あなたも落ちる。
家の空気も落ちる。
そしてまた、濡れた服のまま、翌朝が来る。
もう、ほんとうに、よくやっていると思う。
「大変ですね」で終わられたら、困る。
大変なのは知っている。
大変すぎて、もう大変が日常になっている。
「子どもが学校に行かない。」
この一文の中に、何年分ものものが詰まっている。
はじめて「行きたくない」と言った朝。
その前の日の夜の顔。
もっと前から増えていた腹痛。
宿題を前にして固まっていた時間。
友達の話をしなくなった頃。
先生の名前を聞くと、少し表情が変わっていたこと。
朝になるとトイレが長くなったこと。
「別に」と言う回数が増えたこと。
休日だけ元気だったこと。
親が「大丈夫?」と聞くと、「大丈夫」と言ったこと。
大丈夫。
この言葉ほど、あてにならないものはない。
本当に大丈夫なときにも使う。
大丈夫じゃないときにも使う。
これ以上聞かれたくないときにも使う。
親を心配させたくないときにも使う。
自分でも何が起きているかわからないときにも使う。
大丈夫は、万能のばんそうこうみたいな言葉だ。
貼ると、一瞬おさまる。
でも中の傷は見えなくなる。
あなたの子も、ずっと貼っていたのかもしれない。
学校で貼っていた。
家で貼っていた。
先生の前で貼っていた。
友達の前で貼っていた。
あなたの前でも貼っていた。
「大丈夫」
そう言いながら、ほんとうは少しずつ血がにじんでいたのかもしれない。
そしてある朝、もう貼れなくなった。
玄関で止まった。
布団から出られなくなった。
制服を見るだけで固まった。
ゲームの中に逃げた。
暴言になった。
無言になった。
涙になった。
腹痛になった。
頭痛になった。
「わからない」になった。
それは、突然のわがままではなく、ずっと続いていた何かの最後の音だったのかもしれない。
コップの水があふれる、とよく言う。
でも、あれはちょっときれいすぎる。
実際は、台所の排水口に近い。
毎日少しずつ流れてくる。
食べかすも、油も、泡も、名前のないぬめりも。
見ないふりをしているうちに、ある日突然つまる。
水が流れない。
え、昨日まで流れてたやん。
と思う。
でも、昨日突然つまったわけではない。
ずっと少しずつ、奥で詰まっていた。
子どもの不登校も、そんなふうに見えることがある。
ある日突然、学校へ行けなくなったように見える。
でも本当は、その前から小さな詰まりがあった。
親が悪いという話ではない。
学校が悪いという話でもない。
詰まりは見えにくい。
水が流れているうちは、誰も気づかない。
子どもが学校へ行っているうちは、「なんとかできている」と思う。
宿題を出して、給食を食べて、友達と話して、帰ってくる。
だから大丈夫だと思う。
でも、子どもの中では、少しずつ何かが詰まっていたのかもしれない。
そして、あなたの中にも詰まりがある。
子どものことが心配。
でも仕事もある。
夫にわかってほしい。
でも責められたくない。
学校に相談したい。
でも面倒な親だと思われたくない。
子どもを休ませたい。
でもこのままでいいのか怖い。
信じたい。
でも信じてまた折れるのが怖い。
あなたも、ずっと詰まりながら流してきた。
だから、親子で苦しくなる。
子どもが止まる。
あなたも止まる。
家の空気も止まる。
止まっているのに、時間だけは進む。
これがつらい。
カレンダーだけが、やけに元気にめくられていく。
月曜日が来る。
また月曜日が来る。
祝日がありがたい。
長期休みはほっとする。
でも長期休みが終わるのがこわい。
新学期がこわい。
始業式がこわい。
クラス替えがこわい。
進級がこわい。
卒業がこわい。
進学がこわい。
一年中、何かがこわい。
春は春でこわい。
夏は夏で乱れる。
秋は行事がある。
冬は朝がつらい。
季節、全員敵。
そんな気持ちになる日もある。
学校に行けた日、家の中に少しだけ春が来る。
玄関のドアが閉まる。
子どもの足音が遠ざかる。
ランドセルの背中が角を曲がる。
その瞬間、あなたはたぶん、息をする。
いや、今まで息をしていなかったわけではない。
していた。
していたはずなのに、肺の奥のほうが、ずっと正座していたみたいになっていた。
それが、ふっとほどける。
行った。
行ったぞ。
今日、うちの子は学校へ行った。
でも、あなたは知っている。この喜びを大きくしすぎると、明日がこわくなることを。
喜び方にも、音量調整がいる。
大きく喜びすぎると、子どもにプレッシャーになるかもしれない。
喜ばなさすぎると、子どもは「どうでもいいのかな」と思うかもしれない。
ちょうどいい喜び方。
何それ。習っていない。
「行けたね!」と言いたい。
でも、「行けたね!」の中に「明日も行けるよね!」が混ざってしまいそうで怖い。
だから、あなたは妙な顔になる。
うれしいのに、平静。
平静のつもりなのに、目が泳ぐ。
「おかえり」と言いながら、内心では胴上げしている。
でも実際には、味噌汁をよそう。
母親の胴上げは、だいたい味噌汁の湯気の中で行われる。
そして、学校に行けなかった日。
朝の空気が、重い。
カーテンのすきまから光は入っている。
天気予報では晴れ。
でも家の中だけ、梅雨の末期である。
子どもは布団の中にいる。
あるいは、リビングの端で黙っている。
あるいは、ゲームの画面を見ている。
あるいは、「もう無理」と言って部屋に戻った。
あなたは、学校に連絡をする。
この連絡が、地味にしんどい。ボタンを押すだけでもしんどい。欠席理由ってなんやねん。
行けなかった日の子どもは、何をしていただろう。
布団の中で、眠っているように見えたか。
本当は起きていて、リビングの音を聞いていたか。
あなたが学校へ電話する声を、聞いていたか。
ため息を聞いていたか。
冷蔵庫を開ける音を聞いていたか。
きょうだいが登校する音を聞いていたか。
行けなかった子どもは、何もしていないように見える。
でも、何もしていない人の顔ではないことがある。
顔だけが疲れている。
目だけが遠い。
言葉だけが雑。
手だけがゲームをしている。
心はどこかで、ずっと謝っている。
ごめん。
行けなくてごめん。
期待させてごめん。
昨日は行くって言ったのにごめん。
またお母さんに電話させてごめん。
また空気を悪くしてごめん。
でも、無理なんだ。
その「ごめん」が、言葉にならない子がいる。
言葉にならないから、態度になる。
ふてくされる。
黙る。
ゲームをする。
寝る。
怒る。
「知らん」と言う。
親から見ると、腹が立つ。
そりゃ腹が立つ。
こっちは学校に電話して、仕事の予定を変えて、先生に頭を下げて、将来の不安で胃を握りつぶされている。
その横でゲームをされたら、思う。
え、あなた、いまゲームですか。
その集中力、学校方面には出ませんか。
ボス戦に向かう気力の一割でいいので、洗面所まで来ませんか。
思う。思ってしまう。
でも、そのゲームの画面が、その子にとっては唯一、現実から少し離れられる場所なのかもしれない。
現実では、行けなかった。
また失敗した。
また親を困らせた。
また自分が嫌になった。
でもゲームの中では、ミスをしてもリトライできる。
体力ゲージが見える。
敵の強さもだいたいわかる。
経験値も入る。
レベルも上がる。
学校より、ずっと親切設計である。
現実にもセーブポイントがあればいいのに。
朝の七時四十五分、玄関前でセーブ。
失敗したら、そこからやり直し。
昨日の「明日は行く」発言も、取り消し可能。
親の表情も初期化。
学校への電話履歴もリセット。
そんな機能はない。
だから、子どもはゲームに行く。
そして親は、現実に残される。
この分断がつらい。
子どもは画面の中へ逃げる。
親は台所で立ち尽くす。
同じ家にいるのに、別々の惑星にいる。
その距離を、どうやって縮めればいいのかわからない。
「今日は行けた」
「今日は行けなかった」
この二つだけを見ていると、親子はだんだん苦しくなる。
行けた日は、子どもがいい子に見える。
行けなかった日は、子どもが困った子に見える。
行けた日の自分は、少しいい母に思える。
行けなかった日の自分は、何かを間違えた母に思える。
登校が、子どもの価値だけでなく、親の価値まで採点してくる。
そんなわけない。そんなわけないのに、そう感じてしまう。
子どもは、いつもわかりやすく助けを求めてくれるわけではない。
「お母さん、私はいま過剰適応の限界を迎えており、学校場面における対人緊張と自己否定感が複合的に絡み合っています」
…とは言わない。言われたらそれはそれでびっくりする。
子どもはもっと雑に言う。
「だるい」
「無理」
「うざい」
「知らん」
「別に」
「ゲームする」
雑である。
でも、その雑な言葉の中に、まだ名前のついていない苦しさが入っていることがある。
親は、その雑さに傷つく。
こんなに心配しているのに。
こんなに考えているのに。
なんでそんな言い方をするの。
でも、子どももたぶん、自分の中をまだ丁寧に取り出せなくて、引き出しの中がぐちゃぐちゃすぎて、何を探していたのかもわからない状態なのだ。
ハンカチを探していたら、去年のプリントが出てくる。
消しゴムを探していたら、なぜかどんぐりが出てくる。
心の中も、それくらい散らかっている。
そこに親が「早く説明して」と言うと、子どもは引き出しごと閉める。
バン。
終了。
だから、こちらも少し待つ。
でも、ただ待つのではない。
見ないふりをする待ち方ではなく、
取り調べをする待ち方でもなく、
子どもの散らかった引き出しの前で、一緒にしゃがむような待ち方。
「今すぐ全部出さなくていいよ」
「でも、ここにいるよ」
「どんぐりが出てきても怒らないよ」
そういう待ち方。
むずかしい。
とてもむずかしい。
親は早く片づけたい。
何が入っているのか知りたい。
原因を見つけたい。
対策を立てたい。
明日の朝に間に合わせたい。
そりゃそうだ。
明日の朝は、すぐ来る。
子育ての厄介なところは、気づきや反省に浸っている時間をくれないところである。
今日「ああ、この子の内側を見よう」と思っても、明日の朝にはまた靴下がない。
水筒のパッキンもない。
学校からのプリントもない。
心の余白もない。
ないものだらけで朝が来る。
その中で子どもを見るのだから、ひとりでは限界がある。
見たいと思っても、見えなくなる日がある。
そりゃそうだと思う。
毎朝、子どもの顔色を見て、時計を見て、学校に連絡して、仕事の予定をずらして、夫の反応に腹を立てて、先生の声に申し訳なくなって、夜にはまた検索している。
子どもを見ているようで、見ているのは出席日数だったりする。
子どもの顔を見ているようで、見ているのは明日の予定だったりする。
「大丈夫?」と聞きながら、本当は「明日は行ける?」を聞いていたりする。
追い詰められているからだ。
子どもを大切に思えば思うほど、近くなる。
近くなるほど、見えなくなる。
スマホを目の前に近づけすぎると、文字がぼやける。
愛情も、近すぎるとぼやけることがある。
子どものために必死なのに、子どもが見えない。
子どもを守りたいのに、子どもを追い詰める言葉が出る。
子どもを信じたいのに、子どもの「明日は行く」が怖い。
子どもを休ませたいのに、このままではまずいと思う。
「復学」はかつての日常
朝、子どもが家を出る。
ランドセルの背中が遠ざかる。
帰ってきて「ただいま」と言う。
冷蔵庫を開けて、「なんか食べるものある?」と言う。
その普通の景色が戻ってきたら。想像するのも怖いけれど、あなたはそんな景色が戻った時、どのような感情になるだろうか。
これまで、たくさんのご家庭を支援してきたけれど、復学し、親子会話が自然になり、その家庭らしさが取り戻され、「うちの子、頑張ってる」「かわいい」と思えるお母さんのこころが戻ってきて、卒業していくとき、いつも思う。
「親のせいで学校に行けなくなった」「親のかかわりが原因だ」は乱暴な結論づけだなと。
「支援を受けてよかった」と卒業されていくご家庭をみて、いつもそう思う。
良ければ、過去に支援を受けてくださった親御さんのお手紙を読んでみていただけると嬉しいです。
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それでは、今回はこれで終わりたいと思います。
さいごまでお読みいただきありがとうございました。また次回のブログもお読みいただけると嬉しいです!
まいどん先生(公認心理師)
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