「無理に学校へ行く意味がわからない」と子どもが言います。

 

久しぶりに「教育観」について

この内容は、支援中のかたにはお送りしたことがある内容です。ブログにするかどうか悩んだのですが、思っていたよりもみなさんの反応がよく、アップしてみようと思います。

 

不登校や思春期の子どもが、ある日、びっくりするほど大人びたことを言うことがあります。

「無理に学校へ行く意味がわからない」

親としては、思わず背筋が伸びます。
え、そんなこと考えてたの。私がその年齢のときなんて、給食の揚げパンをどうやってもう一個もらうかくらいしか考えていなかったけど。すごい。わが子、思想家かもしれない。
ランドセルの中に、カントでも入っていたのかもしれない。
でも、感心したあとに、胸の奥に小さな引っかかりも残ります。

この子は、本当に自分のことをわかって言っているのだろうか。
それとも、嫌なことを避けるために、それらしい言葉を使っているだけなのだろうか。
ここが、とても難しいところです。

もちろん、本当に集団が苦しい子はいます。
同年代との関係で深く傷ついてきた子もいます。
一斉授業の音、スピード、空気、視線、比較。そういうものに、心身がすり減ってしまう子もいます。

だから、「それは甘えです」と切り捨てる話ではありませんが、ただ、その言葉をそのまま「本人の意思」として扱いすぎるのも、危ういと思うのです。

たとえば、「自分には一斉授業が合っていない」という言葉の中に、別のものが混ざっていることがあります。
教わるのが嫌。評価されたくない。同年代の中で揉まれたくない。
できない自分を見たくない。自分が選ぶ側でいたい。
そういう気持ちが、ずいぶん立派な言葉の服を着て出てくることがある。

服が立派すぎると、中身を見落とします。
スーツを着た回避。ネクタイを締めた幼さ。プレゼン資料を持った万能感。
ややこしい。非常にややこしい。

子どもが「一斉授業は合わない」と言う。
親はちょっと考えます。
…なるほど。じゃあ、個別ならいいのかな。
「家庭教師つける?」「個別塾はどう?」「オンラインで一対一なら?」

すると、子どもが言うわけです。

「まだ早いかな」

ま だ は や い か な 。

いや、早いとは。
学校も嫌で、一斉も嫌で、個別もまだ早い。
じゃあ、いったい何時開店の店なんですか。
看板は出ていますか。定休日はいつですか。
でも、そう突っ込んだところで、子どもは「いやぁ……」となる。

 

言っていることはそれらしいけれど…

ここで親は迷います。
言っていることは、それらしい。
今の時代の言葉で言えば、「個別最適」「自己選択」「主体性」とも言えそうです。

でも、もしかしたらそれは、自分に合う方法を探しているのではなく、教わること、従うこと、評価されること、同年代の中で自分は何軍なんだみたいなことを知ることから、そっと遠ざかるための言葉かもしれません。

しかも、これがまた厄介なのは、ものすごく今っぽい顔をしていることです。

昔なら、大人は言ったかもしれません。
「ごちゃごちゃ言わんと学校行きなさい」
「みんな行ってるでしょ」
「将来困るよ」「先生の言うことは聞きなさい」

今それを言ったら、家の空気が一瞬で凍り付きます。
子どもは黙る。
親も黙る。
夕飯の味噌汁だけが、やけに大きな音を立てる。

昔のやり方がよかった、という話ではありません。
無理やり連れて行かれて、心が折れた子もいたはずです。
「学校に行くのが普通」という言葉で、逃げ場をなくした子もいたはずです。

だから今、大人たちは慎重になりました。
叱りすぎてはいけない。
追い詰めてはいけない。
本人の気持ちを大事にしなければいけない。
安心できる環境を整えなければいけない。

ただ、その慎重さがいきすぎると、今度は大人の声が小さくなりすぎることがあります。
まるで、寝ている赤ちゃんの横を歩くときみたいに。

 

言葉を選び過ぎて疲れる親たち

家庭の中で、学校の話題だけが爆弾処理班の扱いになることがあります。
「今日、先生からプリントが……」
ここまで言った瞬間、親の脳内には赤いランプが回ります。
下手なことを言えば夕方から夜まで、いや3日くらい会話不能になるからです。

すると親は、言葉をやわらかくします。
「無理にとは言わないんだけどね」「あなたのペースでいいんだけどね」
「学校だけがすべてじゃないんだけどね」「ただ、一応、確認だけなんだけどね」
「だけどね」が多すぎて、ふわふわです。

甘い。やさしい。でも、芯がない。
そうしているうちに、家の中に、いつのまにか小さな王国ができることがあります。

王様は、子どもです。
もちろん本人に、王冠をかぶっている自覚はありません。
マントも着ていません。玉座にも座っていません。
だいたいソファでスマホを見ています。

でも、家族は王様の顔色を見ている。

今日は話しかけてもいい日か。この話題は地雷ではないか。
学校のプリントを出すなら夕方か、夜か、いや今日はやめたほうがいいのではないか。

学校も気をつかいます。先生も言葉を選びます。家族も刺激しないようにします。
その生活が長く続くと、子どもは少しずつ錯覚することがあります。

「あれ、自分って、選ぶ側なんだ」
「大人たちは、自分に合わせるものなんだ」

そして、その感覚のまま言うのです。
「自分には学校が合わない」
たしかに、合わない部分はあるのかもしれない。
でも、本当はまだ、世界に揉まれる前の、やわらかい素材なのかもしれません。

素材なのに、本人だけがもう完成品の棚に並ぼうとしている。
しかも、値札まで自分でつけている。

「高級・個別対応専用・一斉授業不可」

いや、ちょっと待って。まだ焼く前のパン生地じゃないか。
発酵も途中じゃないか。オーブンに入る前から「私はクロワッサンです」と名乗られても、こちらは困る。
でも、子どもは本気でそう思い込んでいることがあります。

だからこそ、大人が必要なのだと思います。
叩くためではなく、決めつけるためでもなく、「あなたはまだ途中なんだよ」と伝えるために。

 

言葉は立派だけれど

もう一つ、見落としやすいことがあります。

不登校の子の中には、大人とはよく話せる子がいます。
「先生とは話せる」「大人とは合う」「同年代は子どもっぽくて無理」
これを聞くと、大人はつい思います。

この子、精神年齢が高いのかな。同年代では物足りないのかな。
でも、ちょっと待った、と思うのです。

大人との会話は、言ってしまえば、接待付きの会話です。

大人は待ってくれます。
話を合わせてくれます。
言葉が足りなければ補ってくれます。
多少とんがった言い方をしても、「そう感じたんだね」と受け止めてくれます。

つまり、大人との会話は、回転寿司でいうところの、好きなネタだけが流れてくるレーンみたいなものです。

まぐろ。サーモン。いくら。またサーモン。
最高です。そりゃ話しやすい。

でも、同年代との関係は違います。

待ってくれません。
合わせてくれません。
話題も自分中心には進みません。
冗談もある。比較もある。断られることもある。
譲らなければならないこともある。

要するに、同年代との関係は接待ではありません。

草野球です。

ボールは変なところに飛んでくる。
誰もルールをきれいに説明してくれない。
たまに理不尽なことを言う子もいる。
空気を読めと言われるのに、その空気がどこにあるのか見えない。

そりゃ、しんどい。

でも、社会性は、たぶんそこにあります。

自分の思い通りにならない相手と関われるか。
自分が中心ではない場でも耐えられるのか。
気まずさや失敗を抱えたまま、関係を続けられるのか。

「大人とは話せるから大丈夫」と見てしまうと、子どもの幼さを大人びていると勘違いしてしまうことがあります。

もしかしたらそれは、大人が丁寧に舗装してくれた道だけを歩ける状態なのかもしれません。

砂利道に出た瞬間、足が止まる。
でも本人は言うのです。

「自分は舗装された道の方が合っている」

いや、わかる。
舗装道路、歩きやすい。
私もできれば人生ぜんぶ舗装道路がいい。
段差も坂道も、できれば国に撤去してほしい。

でも、社会に出ると、まあまあ砂利道があります。
なんなら急にぬかるみもあります。
たまにマンホールも開いています。
なぜ開いているのかは知らない。こわい。

だから、子どもに必要なのは、「舗装道路だけ探してあげること」だけではないのだと思います。

 

自立。生きる力。多様な学び…とは?

転び方。立ち上がり方。痛かったと言う力。もう一回歩いてみる力。
そういうものも、一緒に育てていく必要がある。

子どもの回避を「主体性」と呼んでしまうことがある。
幼さを「個性」と呼んでしまうことがある。
万能感を「自己理解」と呼んでしまうことがある。

大人もまた、こどもをそれらしく「わかったふりをする」。結構怖いことだと私は思います。

もちろん、昔のように、叱る、引っ張る、脅す、根性論で登校させればいいわけではありません。
それで深く傷ついた子もいたはずです。

でも、その反省から、「本人のペースで」「その子に合った学びを」「学校だけがすべてではない」という言葉だけが残り、大人が現実的な話をしなくなるなら、それもまた危うい。
子どもらしい「逃げたい気持ち」もまたわかろうとしないままきれいな言葉で包んでしまうと、子どもは社会との接点をどんどん狭めてしまいます。

厳しくすればいいわけではありません。
追い込めばいいわけでもありません。
苦しさを軽く見ていいわけでもありません。

ただ、本当にその子の可能性を信じるなら、ときには言わなければならないことがある。

あなたはまだ途中だよ。
まだ素材だよ。
これから伸びるからこそ、教わることから逃げないでほしい。
あなたに合う世界を探すことと、あなたが世界に参加する力を育てることは、両方大事なんだよ。
そんなふうに言える大人が、必要なのだと思います。

見飽きたテクニックよりも、子どものポテンシャルを本当に信じて、泥臭く関わること。
哲学的に言えば、「我なんじ」。向き合う。わかろうとする。理解しようとする。理解されたと感じる。結局は関係性ができていないと、これらの言葉は相手には響きません。
いちばん難しくて、いちばん大事なのは、たぶんそこなのかもしれない。

 

それでは、今回はこれで終わりたいと思います。

さいごまでお読みいただきありがとうございました。また次回のブログもお読みいただけると嬉しいです!

まいどん先生(公認心理師)

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