【不登校×哲学的対話】『なぜ?』が大事!不登校や母子登校の悩みを哲学的対話で解決する方法

【不登校×哲学的対話】
『なぜ?』が大事!不登校や母子登校の悩みを哲学的対話で解決する方法

こんにちは。MIKURUMIRUの山下です。 今回は、「すぐに答えを出さなくてもいい」ということについて、記事を書いてみたいと思います。

 

不登校や母子登校に悩むとき、親としては、

「どうしたら学校に行けるのか」

「どこに原因があるのか」

…そんなふうに、「答え」を探し続けてしまうものです。

 

でも、本当に必要なのは、「正解」ではなく、「いま、何を感じているか」を一緒に見つめる時間なのではないかということです。

哲学者のマルティン・ブーバーは、 「人と人は、“なんじ”として出会うべきだ」と言いました。

子どもを「どう変えるか」「どう動かすか」ではなく、ただ、一人の存在として尊重すること。

そこからはじまる対話こそが、 親子の関係を少しずつ変えていくのだと思います。

「ブーバーの『我となんじ』」のような関係性を大切にする哲学」は、現代にこそ必要な視点だと思います。

 

今の社会は、「役立つ情報」「正解のメソッド」「再現性のあるノウハウ」に価値があるとされがちで、特に子育てや教育、支援の分野でも、「どうすれば子どもが動くのか?」「どんな声かけが効果的か?」という“手段ありき”のアプローチが求められる傾向があります。

 

でも、ブーバーの言う「我―なんじ」の関係は、そうした目的志向のやりとりとは対極の位置にあります。

 

そして、ガダマーという哲学者は、 「理解は、対話の中でお互いに変わること」と語りました。

つまり、親が子どもを理解するのではなく、 親も自分を見直しながら、子どもと一緒に変わっていく。

そのプロセスこそが、哲学的対話の力なんです。

 

今回の内容はちょっと小難しいことを書きますが、支援中の方(卒業された方)が読まれると、これまでカウンセリングの中でお伝えしたこと・知識と結び付けて考えやすく、「そう、そう」とうなずいてくださるかもしれません。

 

👇「我なんじ」について、詳しくはこちら👇

 

 「なんじ」と向き合うという行為の価値

ブーバーは『人間には2通りの存在の仕方がある』と言っています。

 

それは、『我ーなんじ』と『我ーそれ』の関係です。

 

我ーなんじとは

 

「人を人として見ている状態」そして心が平和的であること

 

我ーそれとは

 

「人を物として見ている状態」そして心が敵対的であること

 

…と書かれてあるのですが、「人を人として見る」「人を物として見る」ということとはいったいどういう状態を指すのでしょうか。

 

例えば、自分の目の前の人が…

・自分の存在を気にかけてくれる

・目を見て話しかけてくれる

・優しく微笑みかけてくれる

 

あるいは、

・自分の存在を気にかけてくれない

・目を合わさない

・顔を見ないでやりとりをされる

 

どちらのほうが、「自分は受け入れられているという安心感」を持てるでしょうか。

答えは前者ですよね。

 

後者のやり取りは、まるで自分を意に介さないような態度であり、「人として向き合えてもらっている」とは言えません。

相手のことを対等な存在としては受け入れておらず、存在を否定したり傷つけてしまう状態が「我ーそれ」の状態です。

 

親子会話において、親が子とのやりとりにおいて、大事な話の時に全く目をみずに「ふーん」だけで終わっていたり、話を聴き切らずに「それはこうでしょ」と意見をしてしまうと、「我ーなんじ」ではなく「我ーそれ」の状態になってしまっているとも言えます。

その結果、子どもは疎外感を持つようになってしまいます。

 

「子どもが不登校で困っている」→「どうすれば学校に行けるようになるか?」

「親としてどう接すればいいのか分からない」→「正しい対応方法は?」

そういう問いに、ブーバー的な対話では、すぐには答えをくれません。

でも、“子どもと人として出会い直す” “相手を目的の手段にしない”というこの視点は、むしろ焦りや不安で頭がいっぱいになったときに、立ち止まるための視点になります。

 

「うさんくさい」どころか、「息ができるようになる」対話

「哲学…?うさんくさそう」と、哲学的なものは

「なんか小難しそう」「現実の問題には向かないのでは?」と捉えられがちです。(私がそうでした)

 

でも、それってたいてい、説明の仕方が「抽象的すぎる」か「生活と結びついていない」せいなんです。

ブーバーの思想は、表現は抽象的だけど、体感としてはとても素朴で、人間的で、温かい。

たとえば、 子どもを「どうすれば変えられるか」と見るのではなく、子どもを「そのまま、出会う相手」として見直す

この一歩だけでも、親自身がすっと肩の力を抜けたり、子どもが少しずつ心を開いたりするきっかけになります。

 

現代の情報社会においてこそ、「我となんじ」の再発見を

「答えを探し続けて疲れてしまった」

「子どもの気持ちが全然わからないと感じている」

「自分の育て方を責めている」

そういう方にとって、「ただ向き合う」「ただ共にある」というブーバーの関係性の哲学は、古くて新しい、大きな救いになると思います。

現代はとても多くの情報があるけれど、“心が震えるようなつながり”はむしろ希少になってきていますよね。

だからこそ、ブーバーの思想が持つ力は、これからもっと広がっていく可能性があると思います。 

 

「どうすれば子どもが学校に行けるようになるんですか?」 この問いを、私たちは何度も繰り返してしまいます。

けれど、何かがひっかかりませんか。

 

本当にほしいのは「登校の方法」なのか?

それとも「子どもの本当の気持ちとつながること」なのか?

 

私たちは、すぐに答えを求めます。求めすぎてしまいます。

ブーバーの『我となんじ』、ガダマーの「対話的理解」。

難しそうに聞こえるこれらの哲学は、 不登校や母子登校に悩む親子の現実に、実はとても深く寄り添ってくれる視点なんです。

 

なぜ私たちは「答え」にこだわってしまうのか?

現代は“情報社会”です。 スマホで検索すれば、子育てのコツも、不登校の対応も、専門家の意見もすぐに出てきます。

けれど、それらをいくら読んでも、心が軽くならないのはなぜでしょう?

それは、「答え」が欲しいのではなく、「理解されたい」からかもしれません。

私たちは、正しさではなく、「誰かと共に悩める場」を求めているのではないでしょうか。

 

「すぐに答えを出さなきゃ」と追いつめられる現代の親たち 多くの親御さんが、

「どうすれば学校に行けるようになりますか?」

「なにが正しい対応ですか?」と、正解を探して疲弊しています。

でも、その背景には、 他者の目 - 比較と競争 - 教育の“成功モデル”への同調圧力 といった、“外側の正解”に人生を委ねさせる構造があるんです。 

今の日本の教育や支援は、「修復」「矯正」「指導」に偏りがちです。

でも、それでは生きづらさの根っこは癒せません。 親が子どもと向き合いながら、「自分自身」とも対話し直していくこと。

子どもが、親や支援者とのやり取りを通じて、「自分の声を取り戻すこと」。

そのプロセスを支えるのが、「哲学的対話」であり、「解釈し合い、影響し合う対話」です。

 

支援をしていて、いつも思います。

不登校→復学

母子登校→復学

不登校→別の選択肢

・ 

支援をさせていただいたご家庭が、色んな道に進まれていきましたが、「正解」「矯正」のようなカウンセリングよりも、哲学的なスタイルでカウンセリングを行っていったご家庭のほうが、「ほんのりあたたかくなる」。

親御さんたちのキャラを変えずに、その家庭らしさを残したまま、前進していく姿をたくさん見届けました。

私のカウンセリングスタイルが「引っ張って、指導する」というコーチングスタイルではなく、伴走スタイルなのですが、私が親御さんに答えを言って、覚えてもらって、その通りにやってもらっても、それは「親御さんらしさ」ではないし、教科書丸暗記のそれと似てしまうので、わたしは「こうしなさい」とか「あなたがわるい」みたいなことは言わないです。

そんなことを言っても、「正しさ」を押し付けても、実はスッキリするのはカウンセラー側(「言ったった(ドヤ)」みたいな)だからです。

「不登校の親」ということを、どこかご自身で「下げて」いる親御さんにとっては、カウンセラーの「指導」を「わたしの子育てのせいで子供を不登校にしたんだから甘んじて受けないといけない罰」みたいになることもあるのかもしれないんですが、それはちがうと思います。

 

「なんじ」として子どもと出会い直す

ブーバーは言います。

「人間は“我―それ”ではなく、“我―なんじ”の関係の中で生きるべきだ」と。

 “それ”とは、対象として扱う相手。

つまり、 「どう動かせばいいか」「どう指導するか」と見る相手です。

でも、“なんじ”とは、「ただそこにいる存在」として相手に出会うこと。

それは、コントロールしない関係性。

親が、子どもを“問題のある存在”としてではなく、 “ともに生きる存在”として見直すきっかけになります。

 

対話は「理解するために変わる」場である(ガダマーの解釈学)

ガダマーは「対話の本質は、“融合する地平”にある」と言いました。

親は親の視点、子どもは子どもの世界を持っています。

けれど、お互いの視点が少しずつ重なっていくとき、 そこに「ほんとうの理解」が生まれる。

哲学的対話とは、答えを押しつけるものではなく、 変わっていく自分に開かれる場です。

親として、何かを教えるのではなく、 「一緒に考える」ことが、子どもとの信頼を深める第一歩になります。

だから、私は何かを押し付けることはしません。ヒントを与えて、選んでもらいます。(もちろん、引っ張っていってほしいというかたについては、最初は引っ張っていきますが、最終的には「一緒に考える」スタイルになります)

 

ガダマーの解釈学は、「正解を提示すること」ではなく、他者との対話を通じて、真理に“近づいていく”プロセスを大切にします。

現代社会は、「答えが早く、簡単に得られること=価値」とされがち。 けれど、ガダマーの立場は逆です。 

本当に理解するとは、時間がかかること。対話を通じて、自分自身も変化していくこと。

理解とは、他者と「世界観をすり合わせる」ことで初めて可能になるのですが、この考え方は、まさに親子関係や不登校支援、カウンセリングの現場にぴったりフィットします。

支援を離れてからも、親御さんが、ご家庭が、ご自身で対話の中で「どうしたらいい」と考えて答えを導き出せるという事が大事だと私は考えます。

 

「死から逆算して、今を生きる」──未来を明るくする選び方

また、よく見かける「今がつらいのは、未来のために我慢すべきだから」 この言葉は、

もはや多くの親子を追いつめる呪文になっているような気がします。 けれど、本当は逆かもしれません。

「死から逆算して、いま大事にしたいことを見つめる」という、“生きる力”に満ちた問い方のほうがいいのかもしれません。

明るい未来とは、“備えること”ではなく、 “いまをどう生きるか”の積み重ねの中にしかない。

そしてその今は、親子の対話によって築かれていくのではと思います。

 

「死から逆算して今を生きる」=実存の目覚めであり、教育や支援が見失ってきた大切な価値観でもあるのかもしれません。

- 「未来のために今を我慢する」のではなく、「今をどう生きるか」が未来をつくっていく。

それは、「こうすれば不登校が解決する」という“即効性”ではなく、 親が、自分の人生・価値観・育ちとじっくり向き合い、子どもと共に考え、揺れ、変わっていくプロセスの中にこそ、本当の変化があるということ。

そしてそれは、ガダマーが言うような“融合する地平”=自分と他者の理解が深まる瞬間に、とても近いものだと思います。

 

 

まとめ

子どもの不登校、母子登校、そして親自身の生きづらさ。 そのどれもに、すぐに答えは出ません。

でも、問い続けること、共に悩むこと、対話することをあきらめなければ、 いつか、あなた自身の言葉で子どもと出会い直せる日がくると私は信じています。 答えではなく、「問いと共にいる力」。 それを、あなたにも届けられたらうれしいです。 

 

 

 

それでは、今回はこれで終わりたいと思います。

さいごまでお読みいただきありがとうございました。また次回のブログもお読みいただけると嬉しいです!

まいどん先生(公認心理師)

 

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