子どもの不登校。母親である自分が疲れてしまった
ブログをお読みいただきありがとうございます。
不登校や母子登校。「つらいのは子どものほう」みたいな意見も聞きますけれど、いやいや、つらそうな子どもを見る母親だってつらいですよね。
今回は、前回に引き続き、そんなお母さんに向けて思いを書いてみたいと思います。
👇前回の記事はこちら
嵐が過ぎ去ったら、家を建て直そう
避難場所に逃げ、ホッとして、心の中が大荒れで、ちょっとしたことで子どもにきつくあたる連続の毎日から抜け出したら、まずは第一関門を突破です。
いったん嵐が過ぎ去って、まだ自分も完全に回復してない。けど、お家のほうも気になるじゃないですか。
避難場所に逃げてきたけど、家のほうはどうなってるんだろう…と。
恐々見に行ってみたら、案の定窓が割れて家の中はぐちゃぐちゃ。あー見たくない。こんなの現実じゃない。
避難場所に戻っちゃいたいって思うけど、でもここがうちの家なんだよなぁ…。
ということで、次の関門はこの家を「とりあえず」住めるようにすることです。
そしてこの作業をひとりでやろうと思ったら心が折れそうになりませんか。
誰かに指揮してもらったり、手伝ってもらったら、しんどいけど、キツいけどがんばろうと思えると思います。そのサポートが支援です。
きっつ~。しんどい~。ひとりで抱え込めないよ…!という心のしんどさを支えて、
このガレキどうしたらいいの?これをどうやって再利用するの?何を買ってきて、どうしたらいいの?
…という実際の作業のハテナに答えたり、牽引します。
まずは、どこがどうなっているかを把握しないまま適当にやるとさらに状態が悪化するので、状況を確認します。
よく、家が濡れた直後は何ともないように見えても、あとから「カビが発生して柱が腐ってた!」とか、「悪臭が発生した!」とか、さまざまなトラブルを引き起こして生活できなくなるからしっかり乾燥ないとだめだとか、修理費用がかさんだりするとか、専門家に見てもらわないとわからないところがあると言われるのですが、それと同じです。
一見問題なしと思っても、後からえっ!ここ濡れてたの?!…腐ってるじゃない…となるように、家族のコミュニケーションも、一見問題なしと思っていても、よーくみたら、「ちょっとここ濡れてるからしっかり乾燥しないとね」「ここはもう使わない方がいいね」みたいなことがあったりします。そういうことがないように、状況をよく観察します。
どうやって観察するのか
自分のことはよくわからなくても、人のことはよく見えるのが私たち人間です。
旦那さんが開けたら開けっ放しなのが気になっても、自分の場合は気にならないとか、子どもが脱いだら脱ぎっぱなしなのが気になっても、自分の場合は気にならないとか、人のミスはよく見えるけど、自分のミスには気づけないものです。
人のことはジロジロみれますけど、自分のことをジロジロみるのは難しいですよね。
ていねいに、ていねいに、コミュニケーションをじっくり観察していくと、色々と見えてきます。
たとえば、「先週末は親子で楽しく出かけた」と思っていても、会話の中身をよーく見たら、
子どもが外食で食べたい店が見つからなくてワガママを言って大泣きして、お父さんがつい舌打ちしちゃって、
子どもが「パパなんてきらい!」と泣き出して、そんなお父さんを見てお母さんが『何やってんの?大人のくせに。子どもかよ』と思いながらも、お母さんもお父さんに「もう、いいから!何でそうやって空気悪くすんの?!」とイライラして、雰囲気が最悪になった瞬間があった。
子どもが好奇心旺盛で自分中心の振る舞いをしがちだから、つい「あっ!もう、やめなさい。そこは行っちゃだめなんだって!」「何で人のいやがることばっかするの?」「何でわからないの?」と細かい指示をしたり、責めてしまう瞬間があった。
…みたいなことが見えてきます。そういうのを見つけて、「親としてそれはだめ!こうしなさい。」と周りに言われても、親側の意見もありますよね。
すごくよくわかります。やる気もなくしますよね。私ならなくします。
ですので、まずはお父さんの気持ちにフォーカスします。
「外食で行きたい店が見つからないことだってそりゃあるやろ。そもそも外食させてもらえるんだから文句言うなよ。じゃあ家で食べようと代替案も出してるのに、今この瞬間に自分が行きたい店に連れて行け言われたって無理なもんは無理。叱るにもどう言えばいいかわからないし、腹立つ。なんなんだ。」…と思って、色々耐えてはいたけど我慢できなくなって、そしてつい舌打ちしちゃった。
次に、お母さんにフォーカスしてみると、お母さんはこういう場面で、お父さんから、「いい加減にしなさい。今日はこの店に行くか、帰るかや」とスパッと言ってほしいのに、色々「あれにする?これにする?て言うて、ご機嫌伺いして、結局それで思うように子どものキモチが切り替わらないからって舌打ち?それならもう私に任せてくれたらいいのに!中途半端に口出しして、最後は結局私が子どもの不機嫌をなんとかしなきゃならないじゃない!」と思って怒っちゃった。
子どもは、この場面では、「この前パパは『こんどマクドナルドに行こうな』って言った!それが今日なのに!『こんど』は次のお出かけってことじゃないの?!うそつき!」と思ってあれもやだ、これもやだってだだをこねたのかもしれない。
こんなふうに、それぞれの視点で物事を見たら、こう?というのを客観的にお伝えしてみると、お母さんは「まさに!私はそれでイライラしてました!」となるし、お父さんのキモチを想像したら「ムカつくのは変わらないけどわかる気はする」となったり、子どものキモチを想像したら「それはありそう…だからかぁ。かわいそうなことをしたなぁ」となったり。
こうやって視点を変えてみると、状況を落ち着いて捉えられるようになるんですよね。
そこから、『我が家はお出かけ時の外食をどう決めるのがいいのか』について考えたり。
「前もって今日はここで食べるよと決めてたらよかったかも」
「子どもの意見を取り入れるなら、前もって何が食べたいか聞いておけばよかったかも」と、起きた出来事に対して、後で『もう一度さっきの流れを経験するならどうしておくのがよかったか』を冷静に考えるという練習を繰り返します。
そうしていくうちに、
・どういう基準で
・どういうふうに
・誰が選ぶか
・誰が決めるか
…みたいな軸ができていきます。自分軸みたいなものです。
何かを選んでも、後でこれでよかったかな、あれでよかったかなと悩まない軸です。
そういう軸を作るのは、家を建て直す時の柱になります。
これなら、直視したくないなと思うことも、前向きに見つめて、変えていこうと思えませんか。
人間なので、感情に振り回されることはあると思うんです。私もあります。むちゃくちゃあります。
それを、感情と理性を切り離して「こうするべき」「これがダメ」なんて言われたら、微妙だなと思うやりとりも隠したくなるじゃないですか。
自分だって頑張ってやってるのに、何となくアカンやりとりしてるとわかってても、責められてる気がしちゃうと思うんですよね。
それぞれの視点で物事をみたら、決して相手を傷つけようとしてたわけじゃないんだなってわかるんです。
そうしたら、相手に優しくなれます。
優しく「しなければならない」じゃなくて、「したくなる」んです。
「こういう捉え方どうですか。」「こういう物事の見方がいいかもしれませんよ。」と、状況の見方をお伝えし、どう捉えるのがオススメか指揮をして、どこがどうなっているのか把握していきます。
そういうことを繰り返していくうちに、子どもの声が聞こえてくるはずです。
親子会話を楽しく振り返ることができるようになると、アンテナがピン!と立つようになります。
グルグルと頭で考えなくても、何となく、子どものキモチがわかってきます。不思議とセンサーの感度があがります。
今まで見えなかったものが見えるようになり、おのずと仮説が湧くようになり、観察と違えばまた新たな仮説が湧く、ということができます。どんどんよい循環に入っていきます。これで第二関門突破です。
そうはいっても復学についても気になる
こんなふうに第二関門を突破するあたりに、自然とお子さんが復学していることがあります。
これは、親御さんのお子さんのことをよく観察した結果だと思います。
子どものキモチがわかるようになり、自然と寄り添えるようになると、それが子どもにも伝わるからです。
「学校に行きなさい!」と言わなくても、なんとなく、じんわりと、お母さんの想いが子どもにつたわる。
ポタリ、ポタリと、水滴が一滴ずつたまっていくように、時間をかけて子どもの中に何かがたまっていくんです。それは、お母さんの愛だったり、祈りだったり。じんわり、ほんのり心があたたかくなって、「あ。学校行こうかな。」と復学していく子もいます。
そうでない場合は、このあたりから動き出すことがあります。親から子へ、何かしらの働きかけをしてみようかと検討するということです。
ポイントは、お母さんがちゃんとお子さんのキモチがわかるようになっていたり、親子の間で心がふれあうような感覚がある状態に達してから、登校のことについて話し合うということです。
これができてないうちに「学校行かへんでどうすんの」みたいなことは言ってはいけません。
これは極端な例ですが、全く信頼してない人から「そんなのでどうするんですか」と言われても、「うるせー!黙っとけ」となりますよね。
自分のことを本気で心配して大事にしてくれているとわかっている人に言われたら、素直に「そうなんですよねぇ…自分でも困ってて」と話せると思うんです。
(どんなふうに働きかけるか?についてはご家庭によって異なるので、ここで「こう声をかければいい」というのは書きません)
刻一刻性に対応しながら、過去を見つめる
そして次は第三関門です。とりあえず建て直しの土台ができたら、最後はどう快適な環境をつくるかです。
私がよくやるのは、親御さんの過去の掘り下げです。
もちろん、過去だけ掘り下げているだけだと、刻一刻と「今この瞬間」が変わっていくので、現在進行形での親子のかかわりも大事にしながら。過去、現在、未来を行き来しながら、環境を作ります。
小さい頃、自分はどうだったかなぁ。
どんな人生を歩んできたかな。
母親になって、どんなふうに変わっていったんだっけ。
私はこれから、どういう人生を歩むんだろう。
そういうことを、親御さんには考えてもらっています。
私自身、「自分が存在する意味とは」を考える人間なのですが、これまで長く支援をしていると、最終的に、
「母親としての自分はどうしたらいいかはなんとなく見えた。だけど、そうじゃない私は一体何なんだろう。どう生きたいんだろう。子どもが巣立ったあと、私に何が残るんだろう。私、どう生きたいんだろう」
という悩みをもたれている方が多いと気づきました。
フロイトやアドラーといった心理学は役に立つ時もあるとは思うんですけど、勉強して、いざ自分に当てはめようとすると難しいくないですか。「何々理論というのがあるらしい。へえ。やってみたい。」と思っても、難しいんです。
私もアンガーマネジメントを学んでやってみようと思ってやりましたけど、数秒待ってもイライラなんて全然なくならなくて。
「えっ、全然なくならへんけど、みんなこの数秒で落ち着くん?!マジで?うそやろ?!」
…と思いましたもん。(これは単に心理学(方法)が私に合ってないのかもしれないですけど。)
ロゴセラピーで「生きることを好きになる」
私の場合は、人間の存在の意味や目的を重視したほうが人間を理解できると思っています。
そこで、私はロゴセラピーの創始者である、オーストリアの精神科医のヴィクトール・フランクルの考えを支援に取り入れています。
ロゴセラピーとは、人生の意味を見出すことを助けることを目的とした取り組みです。
フランクルは、哲学者ハイデガーの存在論に傾倒したことによって深化しました。
ハイデガーは「存在」とは何かを探求し、人間の存在が世界との関係性を通じて理解されるべきだと主張しました。
フランクルもまた、人間の存在には意味があり、それを追求することが重要だと主張しました。
フランクルはフロイトやアドラーの心理学主義を批判し、ハイデガーの影響を受けながら、人間の存在の意味や目的を探求する新たな視点を提供しました。
「どんな時でも、人生にイエスと言おう」という彼の言葉に、私は深く影響を受けています。
生きていれば、様々な困難は降りかかります。嵐がやってきて限界ギリギリ…になることもあれば、家がぐちゃぐちゃになり建て直さなければならなくなることもあれば、「あのころは苦しかったけど、そのおかげで生きることを好きになれた」と思えることもある。
人生のアップダウンをうまく乗りこなしながら、毎日を大事に、前を向いて歩んでいくことこそが何よりも大事だと思うからです。
過去に何があったとしても、私らしく、力強く生きていく。そういう姿を親が子に見せていれば、子どもも逞しく育つと思うんです。
修羅場をたくさん乗り越えていけば、困難がやってきても笑って乗り越えられるかもしれません。
「困ったねぇ」といいながらも、前を向く親の姿は何よりも子どもにとっての生きるお手本だと思うんです。
どんな時でも人生にイエスと言う。生きることを好きになる。私らしく人生を歩んでいく。
そこをゴールにして、そして支援は終わりになります。
その際、ご卒業という言葉を使いますが、決してそこで関係が断つことはありません。
離れていても、親御さんとともに歩んだ道・思い出があります。私がふと、「あのお母さん元気かな」と思えば、過去に支援を差し上げたお母さんも、「山下どうしてるかなぁ」と思っているかもしれない。
ともに歩んだご家庭のみなさんには、ずっと幸せで、笑顔でいてほしい。
そう祈りながら、今までも、これからも、支援と言う名の手作りのアートと向き合っています。
それでは、今回はこれで終わりたいと思います。
さいごまでお読みいただきありがとうございました。また次回のブログもお読みいただけると嬉しいです!
まいどん先生(公認心理師)
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