
「生きづらさ」を声にできない子どもたち
ブログをお読みいただきありがとうございます!
今回は、支援者であるわたしのことについて文章を書いてみようかな…と思います。
親の気持ち・子供の気持ち
どうしてもわたしは、子どもたちが母親の一言にどう感じているのか・受け取っているのかを考えてしまう。
大人になるまで、わたしは人の気持ちに鈍感なタイプだった。
にもかかわらず、わたしは今、人のこころの動きに過剰に反応してしまう。
わたしが高校生だった頃、友達が「ふと、いなくなりたいようなさみしい気持ちになってしまうときがある」と言った。
わたしは、「ふうん」としか言えず、その後部活の先輩2人が夜にバイクでその子の家まで遊びに行き、話を聞いたらしいということを耳にして、『甘いんだよな』『何それ、悲劇のヒロイン?』と思ってイライラしていた。
さみしい?
消えたい?
そんな気持ちは、弱いから考えちゃうんやろ。
そうやって同情されてかまわれようとするのがすごい嫌だと思ってしまったのだった。
振り返るとわたしは、10代の頃はとくに、感情というものを無視していきていた。
バイトでも部活でも、とにかく昭和のど根性。
バイトではあまりにトゲトゲしていたため、何人か辞めさせてしまう始末。
人に頑張りを強要してしまう。
人に努力を強要してしまう。
お客さまやパフォーマンスのために歯を食いしばるべきでしょ!と、自分の価値観を押しつけまくっていた。とんでもないハラスメント野郎である。
自分の感情なんて、自我なんていらない。結果さえだせばいい。
そう考えていたわたしにとって、
さみしい
つらい
くるしい
つかれた
こんな言葉は甘えでしかなかった。
だから周りがそういう言葉を使ったり、部活動や仕事を舐めたような態度や行動をとっていると思うと、攻撃しないではいられなかった…。
なんでかというと、私自身が感情を押し殺して努力根性で結果しかみていなかったから。
弱音をはいて誰かに助けてもらったり、寄りかかることはだめなことだと思っていたから…。
さらに遡ると、わたしが育った環境では「感情」を取り扱ったやりとりが皆無といっても過言ではないくらいで、つねに家族だれかが不機嫌で、喧嘩しているような環境だった。
いつも戦場で寝起きしていたような緊張感で、毎日家族の顔色をうかがっては、うっかり地雷をふんでしまって心を無にして人格否定の言葉を浴びせられる。存在そのものを否定される言葉も。
そういう環境でサバイブしてきてしまったもんだから、わたしは弱音をはくことは許されなかったし、言えばバカにされたし、無視されたし、気持ちを大事に扱ってもらえなかったから、だからわたしは、感情を殺した。
わたしは傷ついてる。
大事に扱われないことに悲しみがある。
自分より6歳以上うえの姉たちや、両親の喧嘩は、言語が未発達のわたしには、ただただ苦しみでしかなかったことを「ちゃんと」感じてしまうと、何かが崩壊してしまうからだ。
そんなわたしは高校の頃の友達のSOSを拾えず…数年後…彼女はこの世を去った。高校卒業後、こころを病み、摂食障害に苦しんでいたようだった。
自殺なのか、摂食障害の影響なのか。
早くにこの世を去ってしまった。
どうして彼女の苦しさをわかってあげられなかったんだろう。
ずっとあの子は、理解者を探してた。
ずっとあの子は、誰かの一番でいたかった。
大家族にうまれたあの子。
どんな環境だったかなんて、わたしは知らない。
もう、聞けない。
勝手な憶測だけど、大家族のなかで寂しくて、でもしっかりしないとと明るく振る舞おうとしていたんじゃないかって思うと…どうしてわたしは、あの時手をにぎり、目をみて、わからないなりにもはなしを聞かせてほしいと言えなかったんだろうと思う。
わたしだって小さい頃は、本当はたくさん傷ついてきていた。
いつかはこんな環境から抜け出して、明るく健康的な家庭の子になれるんじゃないかと夢を見続けてきていた。
わたしにとって、サザエさんやクレヨンしんちゃんみたいな明るい家庭は創作物すぎた。あんなふうに笑いながら食卓を囲むことなんて、そんな世界なんてないと思っていた。
そんな私だったから、あの子の苦しさをわかってあげられたかも知れなかったのに。
思春期までにうまく情緒形成ができなかった子は、どうも大人になってから希望をもち働くことがむずかしいような気がする。
社会にでて同年代の子たちと比較すると、明らかに経験・体験に差があり、情緒の安定感も全然違う同僚たちと働いていても、そもそもベースが違いすぎて苦しい。
自分の感情なんてわからないし、押し殺し癖があるから、休みの日もちゃんと休めない。
お酒やギャンブルに似たような現実逃避で休日を過ごしてしまって、どうも自分を好きになれない。
そうして心を病んでしまう。
本当の意味での居場所もなく、逃げ場もなく。
わたしは、こども時代にこどもたちがこどもらしくいられないことに過敏だ。
こどもが母親に「鬱陶しい」というような態度をとられてしまうことに敏感だ。
母親たちがそういう態度をしてしまうのには理由があるとわかってはいる。
だけど、どうか、わたしは、わたしみたいなゆがんだ大人になってほしくないし、高校時代の友達のようにはなってほしくなくて、親子が過ごす時間や質をよくしていくことを職にしてる。
自分のこころをなんどもえぐられ、苦しみ、吐きそうになることもあるし、眠れない夜が続くことがある。
それでも、どうしてもわたしは、カウンセラーというものをやめられないでいる。
ポロポロ泣きながら、親御さんとお子さんの気持ちを想像しながら、初回相談を読んでは、これはわたしのこれまでの経験がいかされるかもしれない。わたしにしかできない支援があるのかもしれないという使命感に突き動かされながら。
うまくきく必要なんてなくて、ただ、そばにいるだけでよかったのに。
思春期までにうまく情緒形成ができなかった子は、どうも大人になってから希望をもち働くことがむずかしいような気がする。
社会にでて同年代の子たちと比較すると、明らかに経験・体験に差があり、情緒の安定感も全然違う同僚たちと働いていても、そもそもベースが違いすぎて苦しい。
自分の感情なんてわからないし、押し殺し癖があるから、休みの日もちゃんと休めない。
お酒やギャンブルに似たような現実逃避で休日を過ごしてしまって、どうも自分を好きになれない。
そうして心を病んでしまう。
本当の意味での居場所もなく、逃げ場もなく。
わたしは、こども時代にこどもたちがこどもらしくいられないことに過敏だ。
こどもが母親に「鬱陶しい」というような態度をとられてしまうことに敏感だ。
母親たちがそういう態度をしてしまうのには理由があるとわかってはいる。
だけど、どうか、わたしは、わたしみたいなゆがんだ大人になってほしくないし、高校時代の友達のようにはなってほしくなくて、親子が過ごす時間や質をよくしていくことを職にしてる。
自分のこころをなんどもえぐられ、苦しみ、吐きそうになることもあるし、眠れない夜が続くことがある。
それでも、どうしてもわたしは、カウンセラーというものをやめられないでいる。
ポロポロ泣きながら、親御さんとお子さんの気持ちを想像しながら、初回相談を読んでは、これはわたしのこれまでの経験がいかされるかもしれない。わたしにしかできない支援があるのかもしれないという使命感に突き動かされながら。
それでは、今回はこれで終わりたいと思います。
さいごまでお読みいただきありがとうございました。また次回のブログもお読みいただけると嬉しいです!
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