
不登校や母子登校は「居場所」を作るとよい
どうして無気力になってしまうのか
人は、自分という人間の「価値」を他者に認めてもらったり、社会的な繋がりの中で安心感を得ようとする欲求を持つ。
これは、生まれながらにして持つ、学習や経験によらない行動様式や衝動、またはその能力をさす本能みたいなものと言ってもいいと思う。
そして、人はこのような欲求が満たされない時、心に欠乏感が生まれる。
かんたんにいえば、
①他者肯定感
②どこかに属して自分の居場所だと感じられること
これが足りないと、こころがさみしくなってしまうということ。
自分の仕事や活動が他者から認められず、経済的に正当な対価を得られず、身近な人との心の繋がりが希薄な状況では、個人は強い疎外感と無力感を抱える。
そう、不登校とは、主に子どもにフォーカスされがちだけど、この理屈で考えれば、子どもの不登校により、いとも容易に母親が疎外感や無力感をもってしまいやすいことがわかるはず。
個人の生活における充足感は、逃避行動(アルコール・衝動買い・むちゃ食い・虐待めいたこと・本来向き合うべき課題から逃れて何かに熱心になりすぎること)を防いでくれる。
欠乏感があるとがんばれない
ただ、他者からの肯定を受けるって人によっては難しいことで、パートナーであるご主人が味方どころか敵・害でしかないとか、職場で理解者がいないとかだと、他者肯定を得ることがむずかしくなる。
それでも自分の価値を現実の中に見出せる人は、精神的に安定しやすい。
でも、それがなかなかに難しい。
だから、「自分を認めてくれ」「ちょっとでいいからほめてくれ」と言いたくなる。
なのに鬱陶しそうにされたり、かまってちゃんと揶揄されたらますます疎外感を感じてしまう。
居場所が感じられないから、お酒やゲームなどに逃避してしまう。
子育てどころではない。
母親である前に個人として欠乏感がある状態では、子どもを支えることが難しい。
よく、不登校の母親は自分の毎日を充実させることから…みたいなセリフを聞くけれど、あの言葉はナイフでもある。
自分本位に振る舞いなさいと言われているようで、母親としてがんばりたいのに敗北宣言をしているようでもある。
自分は子育てに向いてませんでしたと言っているようで、まじめなお母さんほど受け入れがたい言葉。
個人的には、母親の毎日を充実させる…というのは、文字通り子育てはやや放棄気味に(最低限のことだけ)して、自分のことに夢中になれという意味ではなく、母親の環境をなんとか他者肯定感と所属感・居場所を作れるように整えていくという意味であれば納得できるかなと思う。
なぜなら、子どもの性格によっては母親の意識が外に向きすぎると自分はいらない子なんだと勘違いしてますます引きこもってしまい、家庭内で親も子も他者肯定感・居場所感をともに感じられなくなるから。
一緒に生活するのに、苦しい。さみしい。そんな状態に陥ってしまいやすい。
「友達なんていらない」って本当?
不登校の子達をみていると、「別に学校なんて必要ない。友達もいらない。傷つきたくないし。」というような発言が見られることがある。
特にいじめにあっているわけではない子が言う「傷つきたくないし」という言葉。
いじめとまではいかないんだけど、人間関係に疲れた。気を使いすぎる。相性があわなさすぎる。マウントの取り合いがキモい。いろんなしがらみから解放されたくて、いっそ他者とのつながりなんてない方が楽なんだ。もう、自分をすり減らしたくないんだ。自分が自分でいられなくなることがつらいんだ。環境にあわせて自分を演じても相手が自分の思うような反応をしてくれなくて傷つきまくってるんだ。
…と、そういう意味なのかなと思うわたしなのだけれど、不登校を選ぶ子達のなかには、人とのつながりがなくなること・自ら孤立することは孤独とイコールであることを知っているんじゃないかなと思う。
そういう子達に、どんな言葉を伝えると響くのか。
「学校に行くべきよ。みんなそうしてるでしょ。」
では、全く通用しない。
「そろそろ行ったら?」
も、「うん」で終わる。
荒療治ならば、家庭の中に居場所をなくして、さみしさなどから外に「出ざるを得なくなる」という方法も世の中にはある。一切のメディアを使用させず、衣食住の安定も危うい。
生存するために外に出ていかなければならないと本能で感じて、行きたくないけど行く以外の選択肢がなくなってしまうことで学校に再び通い出す子もいるはず。
学校が居場所になればいいけれど、これはかなりギャンブル要素が高い。
どういう言葉がけをすれば動き出せるのか
これからどうしていくべきか。何を行動するのか。という結果・結論を考えさせるような言葉がけではなく、
それよりももう少し手前のやりとりから意識していくのがいいと私は思う。
「傷つきたくないって、どういう場面で、誰が何をいったり、どんな空気感を放っていて、直接的に、あるいは間接的に傷つくの?」ということをしろうとすることだと思う。
大人の「なんだそんなこと。我慢できるでしょ」は、子どもにとっては違う。
なんだそんなことと思うのは大人の価値観であって、子ども自身はちがう。
野球部の子が美術部員のような絵が描けないことが傷つくというならば、なぜ傷つくのかをわかろうとしないことには、「我慢して学校に行きなさい」は残酷な言葉がけになる。
私は虫が嫌いなんだけど、虫だらけの場所に我慢して行けっていわれたら、キツい。
虫がなぜだめなのかをちゃんと理解してもらって、共感されつつも、でも行かないといけない場なのでこういう対策しながらがんばって見ましょうかねといわれたら、まだマシ。頑張れる。
防護服を着て、極力虫が視界にはいってこないようにコンタクトもメガネもせずにその場所に行ってミッションコンプリートしてこようか。とか、慣れも必要らしいから、じわじわと進む範囲を広げていきましょうか。とか、虫が好きになれるよう虫講座を受けてみましょうか。とか。
苦手を理解したうえで、自分にできることを考えてやっていこうねと言われた方が頑張れる。
特に人の感情に対してのアンテナが高いタイプの子は、通り一遍の対応では「そうだね」とはならない。
他者から理解を示され、応援され、励まされたりしながら、がんばってみて、そしてそういった相手との関係性のなかに居場所を感じられるということが、人とのつながりを避けたがるということからの脱却の手だてになるんじゃないかと思う。
それでは、今回はこれで終わりたいと思います。
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