中学生の不登校を「本人の問題」として読んではいけない

家族療法と解釈学の視点から、親子関係を読み直し、復学の土台を整える

中学生の不登校を前にすると、多くの親は混乱します。

小学生のころの「行きしぶり」とは、どこか違う。
以前は泣いて訴えていたのに、今は黙っていて何も話さない。
話しかけても「別に」「うざい」「無理」としか返ってこない。
部屋にこもる。
朝になると特に動きがみられない。
学校の話をすると不機嫌になる。
母親には当たりが強いのに、外ではそれなりに振る舞っているようにも見える。
スマホやゲームには反応するのに、進路や勉強の話になると急に不安定になる。

…こうした姿を前にして、多くの親御さんは、

「何が起きているのかわからない」「何を考えているのかわからない」と不安になると思います。

人間にとって、「何を考えているのかよくわからない」って、実は「脅威」なんだそうで。

昨日まで気持ちがよくわかるあの子だったのが、そうじゃなくなってしまった。

何考えているの?意味わからない。

…そうなると、相手が敵のようにさえ見えてきてしまうこともあります。


そして、そのわからなさに耐えられなくなると、人はどうしても説明を急ぎがちです。意味をもちたくなりがちです。

甘えなのではないか。
思春期の反抗なのではないか。
発達特性なのではないか。
学校が合わないのではないか。
自立心が足りないのではないか。
母親が関わりすぎてきたからではないか。
父親が無関心だからではないか。
友人関係のトラブルなのではないか。

…などなど。

もちろん、こうした見立ての一つひとつに、部分的な妥当性はあると思います。
実際、発達特性が関係していることもあるし、
学校という環境とのミスマッチが大きいこともあるし、
友人関係や教師との関係が引き金になることもあるし、
親子の距離が近すぎる場合もあると思います。

けれど、私は中学生の不登校のケースを支援するとき、いつもそういった説明・判断には慎重でありたいと思っています。
なぜなら、中学生の不登校は、単一の原因で説明できるほど平板な現象ではないからです。

 

むしろ中学生の不登校は、本人の内面、親子関係、家庭の空気、学校という枠組み、思春期の身体と自我の変化…そのすべてが重なり合ったところに現れてくることが多いからです。


そして、その複雑さを見ずに、安易に「結局この子の問題です」と読むと、支援はたいてい浅くなっていきます。
逆に、「親が悪い」とするのも、違うと思います。
「学校が悪い」と単純化するのも、違うと思います。

なぜこう書けるのか。

これらは、私が15年支援をしてきた中での臨床的な意見であるからです。

駆け出しのころ、私は支援者として、復学という結果を出しつつも、今振り返ってみると「浅い支援」をしてしまったのではないかと繰り返し夢に出てくるケースもあるからです。


そんな私が大事にしたいのは、この子に何が起きているかを、その子単体ではなく、じっくりと読むことです。

中学生の不登校は、「自立の遅れ」だけでは語れない

中学生になると、親御さんは、しばしば「そろそろ自立してほしい」と思うと思います。

小学生ならまだ付き添い登校をすることもわかる。
でも中学生で、朝起きられない、親が何度も起こす、母親だけに当たりが強い、学校に関する判断が一人でできない、進路のことも親が引っ張っている。
…そうした姿を見ると、「このままだと自立できないのではないか」という不安が強くなることがあると思います。
しかも中学生にもなると、身体つきも言葉も大人に近づいてくるぶん、親はつい「もうわかるはず」「もう一人で考えられるはず」と思いやすいですよね。

けれど、ここで立ち止まって考えたいのは、

 

自立とは何か

 

…ということです。

 

自立とは、単に子が親から距離を取ることではありません。
口をきかなくなることでもない。
自分で学校に行けることだけでもない。


本来の自立とは、

親のやりとりが途切れて孤立することではなく、

親との関係の中で必要以上に親の意見に飲み込まれすぎず、

必要以上に親の期待を背負わず、

自分の感覚や判断を少しずつ持てるようになっていくこと。信じられること

 

だと私は考えています。

 

この意味でいうと、中学生の不登校はしばしば「自立が遅れている問題」ではなく、

親子のあいだで「自立」がどう扱われてきたか、その関係の歴史が露呈している出来事でもあります。

 

たとえば、母親がお子さんをずっと心配し、先回りし、傷つけまいとしてきた場合。
たとえば、父親が評価者のような位置にいて、家庭のなかの情緒的な揺れから一歩引いてきた場合。
たとえば、家族のなかで不安や怒りを言葉にする文化が乏しく、不機嫌や沈黙でしか緊張が流れない場合。
たとえば、子どもが親の期待や不安に敏感で、「自分の気持ち」より「親をどう安心させるか」で動いてきた場合。

そうした家庭では、中学生という自我の再編の時期に、学校へ行けなくなることが単なる不適応とかではなく、

これ以上このままではいられないという関係からの表現になっていることがあります。

 

家族療法の視点で見ると、子どもは「問題の原因」ではなくなる

私は、そういったケースには、家族療法の視点が大事だと思っています。

家族療法とは、「問題を起こしている個人」だけを見るのではなく、その人が属している関係のシステムを見る立場です。
子どもの症状を、その子一人の異常や未熟さとして読むのではなく、家族全体の均衡、役割、距離、コミュニケーションの型のなかで理解しようとします。


中学生の不登校も、まさにこの視点が必要になる場面が多いです。

たとえば、母にだけ暴言が強い子がいる。
父とはほとんどぶつからない。
学校には行けない。
でも母がそばにいないと不安定になる。

こうしたとき、表面的には「母親への依存と反抗が混ざっている」と読むこともできるかもしれません。
それ自体は間違いではないんだと思います。
けれど、家族療法的に見るなら、それだけでは分析・解釈は足りません。

なぜその子は、母とのあいだでだけそのような関係を作らざるを得ないのか。
父はなぜそこに入りにくいのか。
母はなぜ傷つきながらも引き受け続けるのか。
家族全体として、誰が不安を背負い、誰が外に立ち、誰が緊張を表現しているのか。
そこまで見ていく必要があります。

不登校の子は、「問題を起こしている人」というふうに見られてしまうことがあります。
しかし家族療法の視点では、「症状」を出している人は、実はその家族が抱えている緊張を最もわかりやすい形で引き受けている人でもあると解釈します。
言い換えれば、本人は「家族の問題の原因」なのではなく、家族のなかでまだ言葉になっていないものを身体や行動で表現している人かもしれないです。

「だから親が悪い」ということではないです。
私はそういう犯人探しのために家族療法の考え方を使いたくありません。

そうではなく、
親もまた、その親なりの歴史と限界のなかで、最善を尽くしてきたことが多いというような視点が大事だと思っています。
母親は、この子を守ろうとしてきた。
父親は、この家族を支えようとしてきた。
でも、その善意や努力だけでは解けない関係の型がある。
そしてその型が、中学生という時期に、学校へ行けない・親から離れられない・親にだけ攻撃的になる・自分で決められない、という形で噴き出してくることもあるのだと思います。

解釈学の視点がないと、「意味の読み違い」が起きやすい

また、支援において、私は、解釈学の視点も欠かせないと思っています。

解釈学というと少し難しく聞こえるかもしれませんが、

要するに、人は出来事そのものを生きているのではなく、その出来事が自分にとってどういう意味を持つかを生きている、ということなのですが、

 

同じ「学校に行く」でも、ある子にとっては日常ですが、

ある子にとっては恥をさらしに行く場であり、

ある子にとっては期待に応えられない自分を確認する場であり、

ある子にとっては母から離れてしまうことの不安を背負う場でもある。

 

同じ「親の声かけ」でも、ある子には支えとして響き、ある子には監視や失望の予告として伝わってしまうこともある。

表面的な行動だけを見ても、その子にとって何が起きているかはわからないんです。

 

中学生の不登校支援をしていると、この「意味の読み違い」が本当に多いと感じます。
親は「励ましている」つもりでも、子どもは「追い立てられている」と感じていることがある。
親は「心配して聞いている」つもりでも、子どもは「管理されている」と感じていることがある。
子どもは「無理」と言っているつもりなのに、親には「怠けたい」にしか聞こえないことがある。

この意味のずれを埋めないまま、行動だけを何とかしようとすると、関係はさらにこじれていきます。

最初はただの線だった毛糸が、まん丸になるくらい、複雑に絡んで、ほどけなくなってしまうほどに。

 

だから私は、中学生の不登校支援において、「正しい対応」みたいな考えを先にお伝えすることには特に慎重です。
もちろん、実務的な助言は必要です。
朝どうするか。
学校にどう伝えるか。
進路をどう考えるか。
生活リズムをどう整えるか。
こうしたことは現実として避けて通れません。

けれど、その前に、

その子にとって学校が何を意味しているのか、

母にとってこの子の不登校が何を意味しているのか、

父はこの状況をどう読んでいるのか、

その家族では何が語られ、何が語られないのか。

そこを見ないまま「とにかく別室登校から」「とにかく朝は起こして」とやっても、支援はどうしても薄くなるなぁと感じています。

家庭の中では、同じ出来事を別々の現実として生きていることがある

中学生の不登校でよく見かけるのが、「親子ともに、相手の意味世界を読めなくなっている」という状態です。

母はこの子を心配している。
でもその心配が、子どもにはプレッシャーとして伝わ手つぃまう。
子どもは自分でも苦しんでいて、うまく言葉にできない。
でもその苦しさが、母には拒絶や攻撃として伝わってしまう。
父は、母子の密着度合を見て「甘やかしではないか」と思っている。
でもその父親の「こちら側」への距離の取り方自体が、母には孤立させられているように伝わってしまう。

こうして三者の意味づけがずれていくと、家庭は「事実」を共有しているようで、実はまったく違う現実を生きていることになります。

 

解釈学の視点は、こうしたずれを「どちらが正しいか」で裁くのではなく、それぞれがどの地平からこの出来事を見ているかを理解しようとします。
母には母の文脈がある。
子には子の文脈がある。
父には父の文脈がある。
それぞれの背景、恐れ、守ろうとしているものが違う。
だから同じ不登校という出来事を、違う意味で受け取っている。

支援とは、その地平の違いを少しずつ見えるようにし、飲み込まれずに出会い直せるようにする営みでもあると私は思っています。

「話してくれない」のではなく、まだ言葉になっていないことがある

中学生になると、親は「話してくれない」と言います。
これは本当によくあるはなしです。

でも、話してくれないのは、単に反抗的だからとは限りません。
言葉にすることで、子ども自身が何か見たくないものを見なければならなくなるから、言えないということもある。
言ってもどうせわかってもらえないという諦めがある場合もある。
あるいは、自分でもまだ意味づけできていないのかもしれない。
思春期の子どもは、子どもでありながら、子ども扱いされることを嫌います。
でも大人のように自分を整理できるわけでもない。
この中途半端さの中で、言葉は失われてしまう…。

だから、支援者や親が早く意味を固定しようとすると、その子はますますこころを閉ざします。

「きっと甘えてるんですよ」

「きっと舐めてるんですよ」

「逃げてるんですね。」

「自分には甘く、他者には厳しく。権利ばかり主張して、義務を全く果たさないですよね」

…などというふうに。

 

対話というものをしらないまま、勝手に決めつけられたら、子どもはますます話さなくなってしまうわけです。

私は、中学生の不登校を見ていると、「この子は学校に行けない」のではなく、この子は今の自分のままでは生きられないということを叫んでいるのはないか、と感じることがあります。

学校と自分
親と自分。
自分と自分。


自我が芽生え、自分とは何かを考える時期の中学生。
今までの自分のままでいるのは苦しい。

親の支配に従うのが苦しい。子ども扱いされるのが苦しい。任せられすぎるのが苦しい。相手に合わせるのが苦しい…など。


だからこそ、支援は単に登校再開の技術ではなく、その子が見ている世界を知ろうとすることだと思っています。

理解して終わるのではなく、復学の土台まで整える

ただし私は、「理解できればそれでよい」と考えているわけではありません。
深いところを見立てることと、現実を動かすことは、別ではないからです。

親子のあいだにある意味のずれが少しずつほどけ、家庭の空気が変わり、本人が自分の感覚を取り戻していくとき、結果として学校とのつながりが戻ってくることがあります。
最初は朝起きることからかもしれない。
学校の話題に少し触れられるようになることからかもしれない。
別室登校から始まる子もいれば、放課後の短時間登校から動き出す子もいる。
保健室登校やオンラインでの接続を経て、揺れ戻しを含みながら、以前とは違う形で教室や学校と再び関われるようになっていく子もいます。

私は、復学を外から押し込むものとは考えていません。
けれど、関係の再編と自己感覚の回復を支えていくことが、結果として復学につながることは、臨床の中で何度も見てきました。
だから私は、思想だけを語る支援者でいたいわけではないのです。
家族療法や解釈学の視点で、親子のあいだにあるものを丁寧に見立て直しながら、現実に子どもがもう一度学校へ向かう力を取り戻していくところまで支えたいと考えています。

この意味で、私にとって復学とは、単に「学校へ戻った」という事実だけではなく、
その子が、学校という場を「自分が消える場所」ではなく、「もう一度関わってみてもよい場所」と感じ直せるようになること。
そして親がまた、学校を「この子を押し込む場」か「この子を傷つける場」という二択だけで見ずに、本人の力を回復・成長させる場として再び位置づけられるようになること。
そうした意味の変化を含んだものとして、私は復学を捉えています。

母親の罪悪感と父親の立ち位置を見直すことが、流れを変える

では、どう支援していくのか。
私はまず、母親の焦りと罪悪感を整理することがとても重要だと思っています。

中学生の子をもつお母さんは、周りから責められやすい立場にいることが多いなと思います。
関わりすぎだと言われる。
甘やかしだと言われる。
でも放っておけば「母親なのに何もしない」とも言われる。
この矛盾のなかで、母親は疲弊しやすい。
そして疲弊した母親の不安は、子どもにさらに伝わってしまい。

…外野がいちいちめんどくせぇと思いますよね(あっ、つい本音が)

だから私は、お母さんの育て方が…など、母親を責めるのではなく、まずこの構造自体を見えるようにしたいと思っています。

お母さんがご自身の育て方のせいでと苦しんでいることを、「お母さんのせいではない」という言葉で片づけるのではなく、お母さんが頑張ってとりくんできたことを丁寧に棚卸して、整理して、今までの流れで必要な流れ・対応があったんだということを、一度整理します。

 

次に大事なのは、父親の立ち位置です。
父親が「正論を言う人」「評価する人」「家の外側にいる人」に留まると、母子の密着は固定されやすいんです。
父が情緒的な関係のなかに入りなおし、母子の外から裁くのではなく、家族の中の一員として揺れを引き受けることができると、システムは少し変わります。

私は、父親の役割を「厳しくすること」だとは考えていません。
むしろ、母子の間にある過密さや過剰な緊張を、別のリズムで受け止める人として機能できるかどうかが大きいと思っています。
そのことが、結果として子どもの動きを回復させ、家庭の中に復学へ向かう余白をつくることがあります。

子どもを動かす前に、その子にとって学校が何であるかを聴く

そして子どもに対しては、「どうしたら学校に行けるか」だけを問わないこと。
何が怖いのか。
何が恥ずかしいのか。
何がしんどいのか。
何が嫌なのか。
どこで自分が消えそうになるのか。
その意味を急がずに受け取ること。

思春期の子は、表面的には乱暴でも、内側では繊細に傷ついていることが多い。
だから「なんで行けないの?」より、「学校って、○○にとってどんな場所になって(しまって)いるの?」のほうが、子どもは答えやすいです。

「どんな場所って…え?」と。

最初はわけわかんねー質問!と思われるかもしれません。

でも、繰り返し、対話をしていくことが、遠回りに見えて、実は復学の土台をつくることが少なくありません。

中学生の不登校は、子どもだけを変えようとしても動きにくい

もちろん、現実的な復学を支えることも私は大切だと思っています。
私は、関係の深いところを見ながら、現実に子どもがもう一度学校へ向かう力を取り戻していくところまで支えたい。
ただし、その復学は、外から押し込むかたちで起こるものではなく、その子が少しずつ自分とは何者かという輪郭・アイデンティティを獲得し、(学校)社会とのつながりを再び引き受けられるようになった結果として起きるものだと考えています。
だから私は、復学を直接急がせるのではなく、復学が生まれうる土台を整えたいのです。

中学生の不登校を「本人の問題」として捉えてしまうと、親は「この子を何とかしよう」とします。「本人が変わらないと」と考えます。
でも、視点が変わると、親もまた変わる必要があることが見えてきます。
親が悪いから変わらなければならないというような話ではありません。

人は環境との相互作用で作られていきます。

親子がお互いのやり取りの中で、関係性を作り合っているので、

子どもだけが変わることはないし、
親だけが変わることもないし、
でも、誰か一人の見え方が変わると、コミュニケーションパターンは変わっていき、環境や関係性が変わっていきます。
私は、その変化が、子どもの学校への向き直りにつながっていく場面を何度も見てきました。

ラベルよりも先に、その子固有の苦しみを見たい

中学生の不登校支援で私が大事にしたいのは、「この子は何者か」を早く決めないことです。

怠けている子。
繊細すぎる子。
発達特性のある子。
母に依存している子。

そういうラベルは、ときに理解の助けになります。
でも、それで捉えきれた気になった瞬間、その子固有の苦しみは見えなくなります。
家族療法も解釈学も、私にとってはラベルを増やすための学問ではありません。
むしろ、わかったつもりにならないための視点です。
症状をすぐに個人へ回収しないための視点。
意味のずれを見失わないための視点。
親子のあいだにある「まだ言葉になっていないもの」を、急がずに受け取るための視点です。

そしてその視点は、理解を深めるためだけではなく、結果として子どもが現実の学校生活へ再びつながっていくためにも必要な視点だと私は考えています。

まとめ

中学生の不登校は、親にとっても苦しいことです。
子どもにとっても苦しい。
そして、家庭全体を巻き込みます。
だからこそ、「正しい対応」だけでは足りないと私は考えています。

不登校は、ただ学校に行けないということではありません。
家族療法などの観点から見ると、ご家族のなかで語られずにきたものが表に出てきた出来事でもあります。

だから私は、中学生の不登校を「本人の問題」のみで受け取ってはいけないと考えています。

 

本人の苦しみを、本人ひとりの中に閉じ込めてはいけない。
家族の不安を、母親ひとりに背負わせてもいけない。
学校とのズレを、制度の問題だけにしてもいけない。
それらが重なり合っているところに、今の苦しみがある。
そこを見ずに支援することは、私にはできません。

もしも今、

子どもの不登校を前にして、何をどう見ればよいのかわからない。
母親として関わりすぎているのか、距離を取りすぎているのかもわからない。
学校とのやりとりもしんどい。
このままでは苦しいけれど、どう動けばよいのか整理できない。
そんな状態にあるなら、一人で抱え込まないでほしいと思います。

中学生の不登校は、表面の対応だけでは動きにくいことがあります。
だからこそ、親子関係、家庭の空気、本人の意味世界を丁寧に見立て直すことが大切です。
私は、その整理を一緒に行いながら、親子の関係を立て直し、結果として復学まで見据えた支援をしています。

ただ気持ちを受け止めるだけでもなく、
ただ学校へ戻すことだけを急がせるのでもなく、
その子と家族に今ほんとうに必要な見立てと関わりを、一緒に考えていきたい。
そう思っています。

ご相談では、子どもの状態だけでなく、親子のやりとり、家庭の空気、学校との関係も含めて整理しながら、何が起きているのかを一緒に見ていきます。
「どう声をかけるか」だけではなく、そもそもこの子に何が起きていて、親としてどこを変えていくと流れが変わるのか。
そこまで含めて考えたいなと思われたかたは、まずはご相談いただければと思います。

 

それでは、今回はこれで終わりたいと思います。

さいごまでお読みいただきありがとうございました。また次回のブログもお読みいただけると嬉しいです!

まいどん先生(公認心理師)

👇応援よろしくお願いします!!
にほんブログ村 子育てブログ 不登校・ひきこもり育児へ
にほんブログ村


不登校・ひきこもりランキング

👇不定期で母子登校・不登校解消のヒントをお届け!公式LINEはこちら

👇Instagramマンガをkindleでまとめました!(無料です)

👇MIKURU・MIRUの無料の音声配信はこちら

👇Instagramはこちら

-不登校