親子の共依存・過干渉・見捨てられ不安はどこから来るのか 。不登校の背景にある「関係の状態」について

幸せになりたいのに、なぜか同じ場所に戻ってしまう」

幸せになりたい。
たぶん、あなたもそう思っている。

それは、
「もっと楽をしたい」という意味ではないかもしれないし、
「何も問題がない人生がほしい」という願いでもないかもしれない。

ただ、

  • もう少し、息がしやすい日々でありたい
  • もう少し、笑って過ごせる時間が増えたらいい
  • もう少し、「これでいい」と思える自分でいたい

そんな、控えめで、静かな願いかもしれません。

けれど現実には、なぜか、同じ場所に戻ってきてしまう。

がんばっているのに。
考えているのに。
これ以上ないほど、子どものことを思っているのに。

 

気づけば、

  • 苦しくなる関係の中にいる
  • 自分を削る役回りを、また引き受けている
  • 「私がいなきゃだめ」という場所に戻っている

そして、ふと立ち止まったとき、こんな感覚がよぎることはないでしょうか。

「私は、幸せになりたいはずなのに、どうして、またこの場所にいるんだろう」

誰かに言われたわけでもないのに。でも、どこかで、

「私には、これくらいがちょうどいい」
「楽になりすぎると、罰が当たる」
「私が苦しいほうが、みんなは安心する」

そんな感覚が、体の奥に染みついているような気がする。頭では、

「こんな親子関係、よくない」
「もっと楽になっていいはず」
「私ばっかり頑張るの、おかしい」

そう思っている。

なのに、気づけばまた、

  • 誰かを支える側にいる
  • 誰かの問題を背負っている
  • 「私が何とかしなきゃ」という場所にいる

それはまるで、幸せよりも先に、「慣れた苦しさ」を選んでしまうような感覚のような。

 

 

慣れた苦しさのほうへ戻ってしまう理由

共依存・過干渉・ミュンヒハウゼン症候群的関係とは何か

世の中には、

  • ミュンヒハウゼン症候群
  • 共依存
  • 見捨てられ不安
  • 過保護・過干渉

といった言葉があります。

どれも心理学の用語で、どこか「問題のある人」を指すような響きを持っています。

これらの言葉が指しているのは、「おかしな人」だとか「異常な親」みたいなことではなく、本質は、「関係のかたち」のほうです。

 

例えば、

  • 誰かに必要とされているときだけ、自分が「ここにいていい」と感じられる
  • 誰かの役に立っていないと、自分の存在が消えてしまいそうになる
  • 相手が元気になると、なぜか不安になる
  • 離れていかれる気配を感じると、胸の奥がひゅっと縮む

こうした感覚を持つこと、ありませんか?実は子育て相談に乗っていると、幸せになりたい・子どもを復学させたい・いい親子関係を目指したいと言いつつも、幸せになることに違和感を持っておられる方がいます。そして、結構多い。

  • ずっと「いい子」で生きてきた人
  • 誰かの期待に応え続けてきた人
  • 家の中で、感情を抑えてきた人
  • 誰かの機嫌を読みながら生きてきた人

ほど、この感覚に、覚えがあるかもしれません。

「私は、必要とされているだろうか」
「私は、役に立っているだろうか」
「私は、ここにいていいのだろうか」

それが、生きるための問いになってしまった。

 

大人になっても、無意識のうちに、

  • 誰かを支える役
  • 誰かの問題を抱える位置
  • 「あなたがいないと困る」と言われる関係

を求めてしまったり、そういう場所に居続けてしまう。

苦しいのに。
重たいのに。
疲れるのに。

これが、共依存や過干渉、ミュンヒハウゼン症候群的な関係と呼ばれるものの、深いところにある構造です。

これは、「支配したい」とか「相手をコントロールしたい」という単純な欲求から生まれるのではなく、

「私は、ここにいていい」という感覚を、そういった関係の中でしか確かめられなかった人の、生き方であったりします。

いわゆる優等生。

よくいう、「あなたは本当によくやってくれるわね」という、そういう場で育ってきた・頑張ってきたお母さんは、子育ての中でも同じことを繰り返してしまうことがあります。

それがもう、すっごく苦しいわけです。

 

「必要とされる私」でしか存在できなかった人たち

そしてこの構造は、不登校や母子関係の場面でとても強く表に出やすくなります。

子どもが苦しんでいるとき、親は自然に、こう思います。

「私が支えなきゃ」
「この子を守らなきゃ」
「この子が崩れたら、私が受け止めなきゃ」

こう考えること自体はとても自然で、とても健全な反応です。

ですが、問題はその奥に、実は

「この子が苦しんでいるあいだ、私は必要な存在でいられる」

という感覚が、無意識に重なってしまうときです。

すると、こんな矛盾が生まれます。

  • 頭では、「この子が元気になってほしい」と願っている
  • でも心のどこかで、「この子が離れていったら、私はどうなるんだろう」という不安が芽生える

子どもが少し元気になると嬉しいはずなのに、胸の奥がざわつく。

学校に行けそうな気配がすると、ほっとするのと同時に、言葉にできない不安が広がる。

 

えっ?と思う人もいるかもしれません。

そうそう、と思う人もいるかもしれません。

 

「この子が自分の世界に戻っていく」
「私が、いなくても大丈夫になっていく」

その気配に、体が先に反応してしまうからです。

そしてその不安は、意識されないまま、

  • 先回りして心配する
  • 必要以上に声をかける
  • 子どもの変化を細かく見張る
  • 「大丈夫?」を何度も確認する

といった形で、「行動」として現れます。

親自身は、ただ「心配しているだけ」。

ただ「大事にしているだけ」。

でも、その奥にあるのは、

「私は、この子にとって必要であり続けたい」
という願いが実は根底にあったりするパターンもあります。

そしてこれらは決して、悪意があって、「うちの子をコントロールして支配して私から離れられないようにしてやる」みたいなことがあって起きているわけではないです。

むしろその人がこれまでの人生で、

  • 誰かに必要とされることで自分を保ってきた
  • 誰かの役に立つことで生き延びてきた

という歴史を持っていると、ごく自然にこういった感覚は立ち上がってしまいます。

 

周りから見たら、「過保護だ」「共依存」だと言われてしまう正体ともいえるのかもしれません。

見捨てられ不安は、「存在の記憶」から生まれる

表面上は自立している人ほど抱えやすい不安

「見捨てられるのが怖い」

この言葉を聞くと、多くの人は、どこか依存的な人のイメージを持ちやすいんではないかと思います。

精神的に自立していないね、みたいな…。

・すぐ不安になる
・一人で決められない
・相手にしがみつく
・重たい

そういう人物像を想像するかもしれません。

だから、自分の中に似た感覚があっても、多くの人はこう思います。

「私は、そこまでじゃない」「自立しているほうだと思う」「ちゃんと大人としてやってきた」。

実際、仕事もしてきたし、家庭も回してきたし、子どもも育てている。

「見捨てられ不安」なんて言葉が自分に当てはまるとは思えない。

けれど、見捨てられ不安というのは、必ずしも、

・泣きつく
・依存する
・誰かにしがみつく

という形だけで現れるものではありません。

 

 「役に立たなければ、私は消える」という感覚

むしろ、多くの場合、

・迷惑をかけない
・期待に応える
・空気を読む
・先回りする
・「いい人」でいる

そうやって、「ここにいていい」「あなたは大丈夫」と誰かに言ってもらわなくても、「言われなくても大丈夫な自分」でいようとしてきた人。

そういう人は、表面上は、とても自立して見えます。

でも、その内側では、

「役に立たなくなったら、私は消える」
「必要とされなくなったら、私はここにいられない」

という不安感で苦しかったかもしれません。

多くの場合、そういった人は、

・感情を表に出すと、場が壊れた
・泣くと、困らせてしまった
・甘えると、重たがられた
・黙っていると、ほめられた

そういう環境の中で、生きる術を身につけてきた人だったりします。

つまり、「私は、『そのまま』では、ここにいてはいけない」という感覚を、言葉になる前の年齢で、体が覚えてしまった。

いいこじゃないと愛されない。いいこじゃないとうんざりされてきてしまっていた。

だから、

・役に立つ
・支える
・がんばる
・耐える

という形でしか、「ここにいる理由」を感じられなくなったみたいな、性格云々じゃなくて記憶の話です。

体に刻まれた、「存在の記憶」。

そして、この記憶は、大人になっても、関係の中で静かに作動し続けます。

不登校という出来事が、この構造を強く揺さぶる

子どもが弱っているあいだ、私は「必要な存在」でいられる

子どもが不登校になると、親の世界は急に狭くなります。

時間や気持ちや意識のほとんどが「子ども」に向くようになります。

毎日、

子どもの様子を気にし、
表情を読み、
言葉を選び、
気配を探る。

その生活はしんどい。

でもそれなのに、同時にその世界の中では、親は「必要とされている存在」にもなり…。

・子どもが頼ってくる
・子どもの状態を一番知っている
・子どもの苦しさを一番わかっている
・この子を支えられるのは、私しかいない

そう感じられる位置に、自然と立つようになるわけで。

もしあなたが、

「誰かの役に立つことで、自分の存在を感じてきた人」

だったとしたら、

この場所は、苦しくても、どこか「馴染みのある場所」でもあるのです。

だから、頭では、

「このままじゃいけない」
「手放したほうがいい」
「子どもが自分で動けるようにならなきゃ」

そうわかっていても、体の奥が、その変化を拒む。

それは、

「この子が自立したら、私は、何者になるんだろう」

という問いが、意識よりも先に立ち上がるからです。

誰かに言われたわけでもないのに、
自分の中から湧いてくる。そういう問いが頭から離れられなくなる。

 

回復の兆しが、なぜか不安になる理由

そして多くの人は、この問いにちゃんと向き合ったことがありません。というか、向き合う余裕がなかった。

・子どもを守らなきゃ
・家庭を回さなきゃ
・毎日を乗り切らなきゃ

そのなかで、

「もし、この子が元気になったら、私は、どう生きるんだろう」

なんて、考える暇はなかった。

だから、この問いは「行動」として現れます。

・先回りする
・止める
・確認する
・心配する
・引き止める

その行動のひとつひとつは、愛情から生まれています。

でも同時にそこには、

「ここに、居場所がほしい」という、とても原始的な願いも混ざっている場合があります。

これは「子どもを利用している」という話ではありません。

この傾向のお母さんたちは、意図的に子どもを苦しませたいわけではない。

ただ、「必要とされる関係」の中でしか、自分の存在を感じられない

という生き方が、お母さんをそこに留めてしまうだけです。

 

なぜ「変わりたい」と思っても、元の場所に戻ってしまうのか

 

意志の弱さではなく、身体化された生存戦略である

この構造を、私はミュンヒハウゼン症候群的と表現することがあります。

「相手の弱さが自分の居場所になる」という関係のかたちを指していますが、

ここで大切なことをひとつはっきり言っておきたいのは、「歪んだ愛」という話ではなく。

「そうやってしか、ここにいていいと感じられなかった人生」

の延長の話であって。

 

共依存っぽさがあるお母さんは、ただ、

・役に立つことで
・支えることで
・必要とされることで

成長してきた。

だから「今の自分が間違っている」という意味である必要はないと思っています。ただ、

「もう少し、別の生き方を、試してみてもいいかもしれない」と思ってもらえると素敵だなと思う私がいます。

 

未知は、体にとって「危険」になる

「変わりたい」と思っているのに、なぜ戻ってしまうのか

多くの人が、どこかで一度は思います。

「このままじゃ、しんどい」
「こんな関係、続けたくない」
「もっと楽になりたい」

そして、本を読んだり、誰かの話を聞いたり、自分なりに考えたりして、

「少し子どもと距離をとってみよう」
「子どもに任せてみよう」
「私は、私の人生を生きよう」

そう決意する。

その瞬間は何かが変わった気がする。

けれど、数日後、あるいは数週間後。

気づけば、また同じ場所に立っている。

・結局、口を出している
・結局、先回りしている
・結局、抱え込んでいる
・結局、「私がやらなきゃ」に戻っている

そして、
そんな自分を見て、さらに苦しくなる。

「私は、意志が弱い」
「わかっているのに、変われない」
「やっぱり私は、ダメなんだ」

けれど、ここで知っておいてほしいのですが、戻ってしまうのは、意志が弱いからではなく。

自分の中での「生き方」が、長い時間をかけて定着しただけの話なんだと思います。

 

私たちの多くは、

・こうすると安全
・こうしていれば捨てられない
・こうしていれば、ここにいられる

という「体が覚えたルール」に従って動いています。

幼い頃や結婚・出産後に繰り返し経験した関係の中で、

・こう振る舞えば、怒られない
・こうしていれば、場が壊れない
・こうしていれば、私は消えない

と学んだ「型」ともいえます。

この型は、理屈よりもはるかに深いところにあり、

「もうやめよう」「変わろう」と頭で決めても、体は危険を感じる。脳は変化を嫌います。

・距離をとる
・任せる
・見守る
・何もしない

といった、今までとは違う行動をとるということは、「自由」であると同時に、あなたの体にとっては「未知」でもあります。

そして、未知は、脳にとって危険として処理される。

だから、

・不安になる
・落ち着かなくなる
・胸がざわつく
・何かしなきゃいけない気がする

その不快感を消すために、元の場所に戻る。

苦しい・重たい・しんどい。

けれど同時に、慣れている・予測できる・自分の役割がはっきりしている場所でもある。

だから、戻ってしまう。

それは、「変わりたくない」のではなく、「変わることが、生存の危機として感じられている」という状態ということで説明がつくのかもしれません。

 

誰かに必要とされない自分に価値がないという呪い

ここで、多くの自己啓発やアドバイスはこう言います。

「もっと自分を大切に」「境界線を引きましょう」
「手放しましょう」「自立しましょう」

…みたいな。

それは、「生き方を変えろ」「これまでのあなたを捨てろ」と言われているのと、ほとんど同じ意味を持ちます。

だから、心が拒否するわけで。

変わるというのは単に、行動を変えるとか、考え方を変えるような話ではなく、「私は誰かに必要とされなくてもここにいていい」という感覚をもつ必要があるんですが…

(アドラー心理学の『幸せになる勇気』を読まれたことがあるかたはなんとなくわかるかもしれません)

これまでの人生で「必要とされる私」でしかここにいられなかった場合、

・何もしない自分
・役に立たない自分
・誰かを支えていない自分

で「存在する」という感覚を、ほとんど持っていないので、「そんな怠けていいの?」となりやすいです。

必死に家族を支えてきているのに。なぜだか罪悪感をもってしまう。

まとめ

あなたは、もう「役割を担う人」で生きなくていい」

もしここまで読んでいだたいてみて、胸が少し苦しくなったり、どこかで「私の話だ」と感じたとしたら。

・誰かを支えることで
・誰かのためにがんばることで
・誰かに必要とされることで

頑張ってきたということになります。

あなたの強さであり、あなたの知性であり、あなたの生存戦略であったけれど、自分を大事にできていなかったということでもあります。

「自分ばかりが我慢をして、ずっと踏ん張り続ける人生はやめてもいい」ということを、お伝えできるといいなと思います。

「役割としての私」「必要とされる私」「支える私」じゃなくてもいい。

ずっと必死で、誰かの人生を背負い続けてきていた。

困っているから、一緒に背負ってほしいとご主人にもし言えるならば、頼ってみてもいいかもしれないし、そんな頼れる場所がないんだよ…と思われるかたは、外部にアウトソーシングしてもいいかもしれません。

 

不登校のお子さんのことでお悩みのケースでは、実はこんなふうにお母さん自身に深い悩みがあるというケースもあるというご紹介でした。

「過保護すぎる」「甘えさせてしまって、依存させている」

まわりはそういうかもしれません。でも、それにはあなたなりの理由があるはずですよね、というお話でした。

 

 

それでは、今回はこれで終わりたいと思います。

さいごまでお読みいただきありがとうございました。また次回のブログもお読みいただけると嬉しいです!

まいどん先生(公認心理師)

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