「復学させたい」それは子どものためか、親のためか。
ブログをお読みくださりありがとうございます!まいどん先生です。
毎朝顔のむくみが気になっていて白湯を飲もうとお湯を沸かすのですが、いつも沸いたお湯を冷まし過ぎてぬるすぎる湯…いや、水になる…ということを繰り返しています…電気代がもったいないですね…。
さて、今回は復学をテーマに記事を書いてみたいと思います。
前置き:まいどん先生の小学生の頃のおはなし
子どもの頃、たしか小3くらいのときの話です。
友達と校区外のスーパーに行こうよという話になりました。
そのスーパーに行くには、バスに乗らなくてはならなくて、「バスに乗るお金がない」と言うと、「出してあげるよ」とふだんから羽振りのよいある女の子が言いました。
バスに乗ってスーパーに行こうと話をしたメンバーはふだん全然一緒に遊ばないようなメンバーで、私はとても嬉しくなって「行く!」と言いました。
でも、うまく約束ができなかったのか、約束時間に集合場所に行ったけど誰もいませんでした。
「どうしよう。みんなはもう行ってしまったのだろうか。自分だけおいてかれたのかな。」
と不安なり、バス片道分だけは支払えるおこづかいを握りしめて、バスに乗りそのスーパーに行ってしまいました。(全然後先考えてませんね)
でも、そこに行っても友達はみつからなくて、あてにしてた帰りのバス代もないし、勝手に校区外のスーパーに行ってしまったし、絶対怒られると思って家に電話もできない…
仕方がないので歩いて帰ることにしました。今思えばそんなに遠い距離ではなかったのですが、当時の自分にとってはとても遠い距離のように感じ…。
家にたどり着くまでとても寂しくて、疲れてきて、後悔もあって、心細くて、ポロポロ泣きながらトボトボと歩いた。私にとってはちょっとした冒険のようでした。
そしてなんとか帰宅した私は、母の顔を見て泣きだしました。
そうすると、いつもは反応しない母が「どうしたん?」と話しかけてくれて、すごくうれしくなり、話を聞いてくれるんじゃないかと想像しました。
母「友達とけんかしたん?」
私「ううん」
母「転んだん?」
私「ううん」
母「…おしっこもらした?」
私「(なんでそーなんねん)・・・ううん」
母「なんなの!もう!(怒ってどこかに行った)」
これで会話は終了。
忙しい時間帯でしたので、母の気持ちは今はよくわかります( ̄▽ ̄;)
ただ、「どうしたの?なにがあったか教えて?」とじっくり待ってほしかったし、校区外に行ったことを話す雰囲気にしてもらいたかったし、それを許してもらいたかったし、なによりも帰り道の寂しさや心細さに共感し、理解して貰いたかった。
泣く私に対する親の思いつく質問がたった3つしかなかったこと。
すぐに答えがでないことにいらだって、『泣いてたらわからないやろ』『お母さんは忙しい。無駄な時間をつかわせるな』というような雰囲気を出されたと感じたこと。
「わたしに興味がないんだな」「わたしの体験に興味がないのだな」と感じてしまったこと。
あの瞬間は、とてもかなしく、突き放されたような感覚でした(大げさですが)。
親からすれば些細なことかもしれない。
だけど、私にとっては大きな出来事。そういうちょっとした子どもにとっての大きなハプニングに『なんだそんなこと』と言わず、わかろうとしてほしい。
まだうまれてわずか9年しか経ってないのだから、ひとつひとつへの受け取りかたは大人よりもはるかに大きい。
ここまで言語化はされていなかったはずですが、こういう感覚になったことを覚えています。
本題:復学を目指すにあたり…
支援を受けられたら、最初はみなさん必死です。
子どもの登校のことが絡んでいるので、一生懸命親子会話を送ってくれるし、毎週電話もくださいます。
ですが、「なぜ子どもを学校に行かせたいのですか?」と問いかけると、最初は「子どもが望んでいるので」「学校に行くというのは、様々な経験ができると思っているので」と答えてくださるのですが、最終的に本音としてでてくる答えが『親のために』である方は実は多いんです。
『また働きたい』『親のメンタルが限界』ということが優先されて、子どもの成長などに対しては、『そりゃ、成長は求めたい。でも、今私が苦しいんです』という方は珍しくありません。
お母さんだってひとりの人間なのですから、「本音を言えば自分のため」であることは自然だと思います。
ずっとお子さんがうまれてお世話をし、子育てをして自己犠牲的だった方であればなおさら、『そろそろ解放されたい』という感覚にもなりますよね。
ただ、それとはまた別で、支援をしているとうーんと思うことがあります。
ある程度色んな方法をお伝えし、実践してみていただき、お子さんが復学できた。
継続登校も安定してきた頃、ここで親のために復学してほしいというニーズだった家庭は、だいたい親子会話を書かなくなることが多いんです。
興味の範囲は子どもの登校で、行き渋りや欠席があった日しか親子会話を送っていただけなくなってしまうことがあります。
そして、行き渋ったり欠席があった日に久し振りに送られてきた親子会話をみると、私は正直ガッカリしてしまうこともあります(>_<)
これは前置きで書いた、「あの日の私」をみているような錯覚に陥るからかもしれません。







…と、お母さんは最後は怒り突き放した発言をし、子どもは大泣き。仕事から帰ってきたお父さんに正座をさせられ、叱られて、なにも言い返せない…というような流れになるケースをよくお見掛けします。
親の興味が「子どもの登校」だけになると…
お子さんの登校だけに注目をすると、『甘え』『サボリ』とおもうような休み方をしているなと捉えてしまう瞬間は私にもあります。
「行きたくないな」と思った時、そのままずる休みをするのは違うかなとは思いますが、行きたくない気持ちはありながらも「学校には行かなければ」と考えている時は、子は親に「サボりたかった」「怠けたかった」という気持ちを吐き出したいだけの時があります。
そんな時、子どもの話に耳を傾けて、学校をサボりたいという気持ちに「いいよ」とは言えないけれども、そう思いたくなる気持ちへの理解があったら、「気持ちはわかるけれども、学校はずる休みする場ではないものね。がんばろうね」と言えますね。
行きたくない気持ちへの理解を示そうとせず、「なに言ってるの!行きなさい!」と頭ごなしに言われてしまうと、子どもは「親は命令ばっかりで自分のことをわかろうとしてくれない」と反発心を持ったり、傷ついたりして、本当に学校に行く気をなくして休んでしまうこともあります。
また、「月曜日は誰だって行きたくないよね」「5月病ってやつだね」「2学期はみんなそうよ」と、子どもの話を十分に聞いてないのに「あなたのその考えは、今の状況的にこうだから浮かんでくるものなのよ」と勝手に結論づけられているシーンもありますが、親がそう捉えたいだけであったり、子どもの見ている・感じている世界に実は興味がなかったり、子どもを宥めるのが面倒だからである場合が多いです。
これらは親が『子どもが学校に行くか・行かないか』にのみ注目している時におこりやすいやりとりといえます。
しかし大切なのは、子どもが日々何を感じているのかを想像することであり、何に興味関心を持って何を見ているのかを親が子に興味を持つことです。
そうして子どもの成長を願い、目指して、関わりをかえていくことが本質であり、登校は本質・目的に向かうための過程でしかないともいえます。
「理想のわが子」を目指して育てるのではなく、わが子の特徴を捉えて育てよう
親御さんがお子さんの登校にのみ注目して苛立ったり、落ち込んでいたりと感情的になられている時は、そういうこきこそ丁寧にその日のお子さんとお母さんとのやりとりを振り返り、「お子さんはこう考えていたかもしれないですよ」と伝えるようにしています。
「わたし、自分のことばかり考えてました…子どもを追い詰めて…最悪でした」と落ち込む方もいます。
しんどい振り返りにはなりますが、子どもを追い詰めてしまっていたり、子どもに寄り添えてなかったと気づくと、「次は気をつけよう」「今日はしっかり子どもを見てみよう」と思えて、関わりをより変えていくきっかけになります。
そうなれば、たとえ子どもに言いすぎても親子の成長のためには必要な出来事であったと捉えることもできます。
しかし、失敗(とは言えないことなのに)を私に隠そうとして、私の『もしかしたらお子さんはこう考えていたかも』という振り返りの途中にすべてを聞ききらずに、
「ああ~!そうですよね!私ってそういうところがあるんです」
…と早い段階でこの手の話を切ろうとするかたは結構多いです。
親御さんが自分のこころを守ろうとするがあまり、フィードバックが不十分なままカウンセリングが終わってしまう。
そうしていると、どんどん子どもは登校面においては安定していくので、親御さんはますます子どもへの興味をうしなってゆく。
決して会話がないわけではない。親子仲が悪いわけでもない。
だけれども、「親は自分にそこまで興味がないんだろうな」ということが子どもには透けて見えているように見えている私は、数年後のその家庭は要警戒であると考え、怖くなることがあります。
まとめ
目先の登校はクリアになったから、めでたしめでたし…というケースほど、モヤモヤするものはありません。
たとえ復学していても、継続登校をしていても、です。
そうして卒業されたケースは、数年後に「子どもがまた学校に行かなくなりました」と相談してこられる確率が高いですし、久しぶりにご家庭の状況を見ると子どもが親を信用できなくなっていたり、親御さんが自分のことではなく親自身のことしか考えていないと思いこんでしまって会話すらできなくなっていた…なんてこともあります。
「自分に興味をもち、わからないなりにもわかろうと寄り添い、理解を示してくれた。」
という存在を心の支えにして大人になると、社会で困難が立ちはだかっても乗り越えられるものですが、いつか子どもが
『親は結局のところ世間体を気にしてただけなんだな』
『自分にそこまで興味がなかったんだ』
『親にとっての理想の我が子であってほしかっただけなんだ』
と感じてしまったら、うえで書いたようにお子さんが思春期になったあたりに不登校になったり、引きこもったり、学校には行っているけれども家では親に心を閉ざして喋らない…ということが起こり得ますし、実際にそういうケースはたくさんみてきました。
私が「すぐに復学を」とこだわらないようにしているのは、こういうことがあるからです。
もちろん家庭のバランスを見たときに復学を目指したほうがいい場合は復学を目指した関わりを出来る限りお伝えしますし、実際に戻っていく子のほうが多いのですが、「親のため」に行かせる学校は、結果後でもっとしんどい状況を作りだしてしまうこともある…というお話でした。
それでは、今回はこのへんで終わりたいとおもいます。
また次回のブログにてお会いしましょう 🙂
まいどん先生(公認心理師)
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